第二十八話 偽りの呪術師 ― 前半 ―
事務所に響いたのは、かすれきった女性の声だった。
「……助けてください……私……全部、奪われてしまいました……」
依頼人の名前は──
志乃宮 遥。
三十代半ば。
仕事帰りなのだろう、スーツは雨に濡れたままで、腕には深い爪痕のような赤い跡がいくつもあった。
クロが彼女の気配を嗅ぎとり、そっと零に囁く。
『零……この人、怪異に触れてないよ……なんか……“人に壊された匂い”がする……』
零は頷いた。
「話せ。何があった?」
遥は唇を噛み、震える手でスマートフォンを差し出した。
画面には
“黒凰霊術会 呪い解除・悪縁切り・人生好転”
と書かれた広告。
その下に──
三十万円を要求する領収書。
零は画面から目を離さず言った。
「偽の呪術師に騙されたな」
遥は泣きそうな顔で頷いた。
「……夫が事故に遭ってから、家で“変な気配”がすると感じ始めて……夜になると、背後に誰か立ってる気がして……怖くて……誰にも相談できなくて……それで、ネットに出てきたこの人に……」
クロが怒りを抑えながら言う。
『ねぇ零……この広告……完全に“呪術屋の詐欺”じゃん……』
遥は肩を震わせた。
「“呪いが家族に向いている。解除しなければ全員不幸になる”って脅されて……追加料金で……合計百二十万……全部……払ってしまって……」
零の表情がわずかに曇る。
──呪術を利用した詐欺。
零にとって“最も軽蔑する行為”のひとつ。
「遥。お前の家に“怪異”はない。ただのストレスと悲しみから生じた影だ」
遥は涙をこぼしながら俯いた。
「……じゃあ……あの人の言ってた“呪いを祓う儀式”も……?」
零は断言する。
「全部、嘘だ。呪術の知識をかじった連中の常套手段だ。本物の呪いは“金”ではどうにもならない」
クロが怒りで毛を逆立てている。
『零……ムカつく……呪術を、こんなふうに使うなんて……』
遥は両手をぎゅっと握った。
「……悔しい……私は……夫の事故のことで……
自分が壊れそうだった……そこに“助ける”って手を伸ばされたら……信じてしまって……」
零は彼女をじっと見つめた。
「悔やむな。弱っている時につけ込む霊感商法は、怪異よりよほどタチが悪い」
クロが小さくつぶやく。
『零……どうするの?この“黒凰霊術会”ってところ……』
零は立ち上がり、筆を手の中で軽く回した。
「決まっているだろう」
その瞳は珍しく怒りを帯びていた。
「呪術を騙り、弱者を食い物にする者──“俺が直接、会いに行く”」
遥は驚いたように顔を上げた。
「で、でも……
あの人たち、怖い人たちみたいで……
零さんまで巻き込んでしまったら……!」
「心配はいらない。本物の呪術を扱う者が行けば──連中は立っていられない」
クロもにやりと笑う。
『零が怒ってると怖いけど……頼もしいね』
零は遥に向き直る。
「場所は?黒凰霊術会はどこにある?」
遥は震える指で地図を開いた。
“古い雑居ビルの三階”。
零はそれを一瞥し、静かに告げる。
「行くぞ、クロ」
『うん、零!』
灯の弱った事務所を後にして──
二人と一匹は、偽りの呪術師の元へ向かう。
そこに待つのは“怪異”ではない。
もっと質の悪い──
“人間の悪意” だった。




