第二十七話 雨傘の少女 ― 後半 ―
霧の奥から、ぽつ、ぽつ、と水音が近づいてくる。
クロの耳がぴんと立ち、零は筆を構えた。
紗世は息を呑む。
雨の中、小さなシルエットが揺れていた。
子供ほどの大きさ。
だが……その影は“人ではなかった”。
腕は水のように細長く、身体はぼやけ、輪郭が時折揺らめいて崩れる。
そして何より──
赤い、小さな傘を片手に持っている。
紗世がかすれた声で呟いた。
「……あれ……あの子の傘……私とお揃いで……買った……」
零がすぐに訂正する。
「違う。あれは少女の傘ではない。雨鬼が“見せている”影だ」
怪異──雨鬼は、濡れた音を立てながら紗世に向かって歩み寄る。
――……さよ……
……あそぼ……
……まってたの……
声は少女そのものだった。
紗世の心が大きく揺れる。
「そんな……そんな声で呼ばないで……やめて……!」
クロが吠える。
『紗世さん! 聞いちゃダメ!あれは……“あなたの記憶を喰おうとしてる”んだよ!!』
雨鬼の輪郭がぐにゃりと歪む。
――……さよ……
……こっちきて……
……ずっと……いっしょに……
……いるんだよ……
その声は──
たしかに少女の声だった。
零は雨鬼に筆を向ける。
「雨鬼。お前は少女の声を真似ただけだ。だが少女の“本当の声”はまだ別にある」
雨鬼は形を崩しながら、赤い傘をゴトリと落とした。
雨が一瞬止まり、影の奥から少女の声が響く。
――……さよ……
……たすけて……
紗世は涙をこぼした。
「……いるの……?本当に……あの子が……」
零が頷く。
「少女の魂は喰われていない。“声”だけが、ここに残っている。だから──呼んでいる」
クロが紗世の手を握り、言う。
『紗世さん……行こう。あの子の声……届いてるよ……』
紗世は震えながら一歩前へ進む。
雨鬼が身をくねらせた。
――……だめ……
……こさせない……
……こっちは……あたしの…………
零は雨鬼へ筆を振る。
「式号──“砕雨”。」
墨が広がり、雨鬼の腕が弾け飛ぶ。
雨鬼の身体はぐらぐらと崩れ、雨の粒となって周囲へ散る。
しかし零は追撃しなかった。
雨鬼の“中心”を探していた。
「紗世。呼べ。少女が最後に言えなかった言葉を」
紗世は涙を流しながら、記憶の中の雨空を見上げた。
「……(旧友の名)……あなたの名前……ずっと呼びたかった……あの時……言えなかった言葉があるの……『また明日ね』って……本当に……明日も一緒にいたかった……!」
雨鬼が震える。
霧の奥から──
少女の声が震えながら返ってきた。
――……わたしも……
……さよに……
……いいたかった……
零が静かに目を細める。
「来るぞ……“本物の声”だ」
霧の中から、少女の姿が現れた。
小学生の少女。
紗世と同じ赤い傘を持ち、笑顔のまま時が止まったように。
少女は紗世を見て、涙を零した。
――……さよ……
……さよ……
……ごめんね……
……さいごに……
……ありがとう……って……
……いいたかったのに……
紗世は崩れ落ちた。
「ごめん……ごめんね……!私も……ずっと……
ありがとうって言いたかった……!」
少女は小さく微笑んだ。
――……ありがとう……
……さよ……
……あのひの……おわり……
……やっと……つづいた……
その瞬間、雨鬼の影はぱあっと光を放ち、霧のように散っていった。
少女の声は光に溶け、赤い傘だけが残った。
紗世はその傘を抱きしめて泣き続けた。
零は静かに告げる。
「少女はお前と“明日”を迎えたかった。だがそれが叶わなかった。だから最後の言葉だけが残った。今日──やっと伝えられた」
クロが紗世に寄り添う。
『紗世さん……あの子、もう苦しくないよ。ちゃんと“ありがとう”言えたから……』
紗世は傘を胸に抱いた。
「……ありがとう……あなたのこと……忘れないから……」
少女の気配が静かに消え、記憶の世界が薄れていく。
道も霧も雨もゆっくり溶け、現実の事務所へと戻る。
雨はまだ降っていた。
紗世は赤い子供傘を抱えたまま、泣きながら零に頭を下げる。
「……本当に……ありがとうございました」
零は静かに頷いた。
「少女の声を最後まで聞いたのは、お前の覚悟だ。俺たちは道を開いただけ」
クロも微笑む。
『紗世さん……あの子も、きっと安心してるよ』
紗世は小さく微笑んだ。
「はい……あの子との思い出……大切にします……」
零とクロは見送る。
紗世は赤い傘を差し、ゆっくりと雨の街へ消えていった。
零はふと、呟いた。
「……雨は、人の記憶を蘇らせる。良くも悪くもな」
クロが頷く。
『でも今日は……“良い雨”だったね』
零はわずかに微笑んだ。
「そうだな」
雨音が静かに響く。
少女の声はもう聞こえない。
ただ雨だけが、優しく世界を濡らしていた。




