第二十七話 雨傘の少女 ― 中半 ―
雨の音が、まるで記憶そのもののように
規則正しく落ち続けていた。
零は赤い子供傘を手に、事務所の照明を落とす。
「紗世。これから行く場所は、“現実”ではなく“記憶の残響”だ」
紗世はゆっくりと頷いた。
涙の乾ききらない頬を拭いながら。
「……あの子の最後を……ちゃんと見たいんです」
クロは傘の影を覗き込み、その中の小さな少女の輪郭を見つめる。
『紗世さんが覚悟を決めたなら、この子も……見せてくれると思うよ』
零は傘を紗世の頭上へ掲げ、静かに言葉を紡いだ。
「式号──“記ひらき(きひらき)”。記憶の扉、開帳」
赤い傘の内側が光を帯び、少女の影が揺れる。
雨音が膨らみ、空気が震えた。
そして──
床が波紋のように揺れた。
紗世の視界が、ふっと白く塗りつぶされる。
次の瞬間、そこは──
十数年前の、あの日の街だった。
紗世は驚いて息を呑む。
「……これ……私の町……小学生の頃の……」
零は横で歩きながら説明する。
「ここは“傘に残った最後の記憶”。少女が何を感じ、どこへ向かったのか──それを追体験する場所だ」
クロは辺りを見回しながら言った。
『でも、人がいない……みんな、影だけ……?』
街を歩く大人も子供も、輪郭が曖昧で、黒の影のように揺れていた。
細部が抜け落ちた“記憶の人形”。
完全な再現ではない。
紗世はふと、自分の足元を見る。
小さな水たまり。
雨の匂い。
あの日と同じ、ひどく冷たい雨だった。
紗世は拳を握った。
「……私、この雨、覚えてる……あの日も、こんなに冷たかった……」
零は静かに問う。
「少女とはどこで別れた?」
紗世は少し考え、やがて震える指で指し示す。
「あの……公園の前の道……そこで『また明日ね』って言って……別れたのが……最後でした」
クロが耳を立てる。
『……でも、ここは別れ道じゃないよ?』
そう──
この記憶が示しているのは
“公園”ではなかった。
知らない小道。
鬱蒼とした木々が続き、奥は霧で見えない。
紗世は愕然とした。
「……ここ……知らない場所……私、来たことない……あの子と別れた場所でもない……!」
零は冷静に告げる。
「これは“少女の記憶”だ。お前の記憶ではない。
少女はお前と別れた後──“どこかへ続く道”へ向かった」
紗世の唇が震えた。
「じゃあ……私と別れたあと……あの子は……一人で……」
クロがそっと言う。
『紗世さん……この道の奥……すっごく嫌な気配する……』
零も周囲を見ながら呟いた。
「……“誰かが呼んだ”気配だな。少女は自分の意思ではなく、“導かれた”可能性が高い」
紗世の目に涙が溜まった。
「そんな……あの子、誰に呼ばれたの……?どうして……?」
零は傘の影を見つめる。
赤い傘の内側で、少女の影が、静かに震えている。
まるで──
「進んで」と言っているように。
紗世は、小さくうなずいた。
「……行かなくちゃ……あの子の最後を……ちゃんと見届けるために……」
三人は記憶の中の道を進む。
足元の水たまりが深くなり、空気は冷え、木々の影が濃くなる。
クロが声を潜める。
『零……なんか……“記憶じゃないもの”混ざってる……これ、少女の記憶だけじゃない……“怪異の影”もある……!』
零は前を見据えたまま言う。
「少女を誘った怪異が、記憶の中に“巣”を作ったな」
紗世は震えながらつぶやいた。
「じゃあ……あの子は……怪異に……」
零は静かに首を振った。
「まだ断言するな。少女の影は“助けを求めている”。完全に喰われた魂なら、影はこうして残らない」
クロは紗世の手を握る。
『紗世さん、一緒に行こうね。大丈夫。この道の先で、あなたを待ってるから』
紗世は涙を拭い、深く息を吸い込んだ。
「……ありがとう……クロちゃん……」
その時だった。
道の奥から──
カラン……と小さな音が響く。
赤い子供傘が倒れる音。
少女の声が重なる。
――……さよ……
……まって……
……こっち……だよ……
紗世の顔が青ざめた。
「……この声……覚えてる……あの日の……最後に聞こえた……」
零は歩みを速める。
「急ぐぞ。“あの日の終わり”が近い」
霧が濃くなり、影が揺れ、世界がざらつき始める。
少女の影が指し示す“あの日の場所”は──
雨の中、ひどく静かな空き地だった。
ただしそこには、
少女の姿ではなく──
赤い傘だけが落ちていた。
紗世が息を呑む。
「……どうして……どうして、あの子はいないの……?」
零は傘の上に残った小さな足跡を見て、静かに言った。
「少女はここで──“誰かに呼ばれた”」
クロの瞳が細くなる。
『零……この呼ばれ方……“普通の怪異”じゃない……これ、人じゃない……』
紗世は震える声で尋ねた。
「じゃあ……あの子は……何に……呼ばれたの……?」
零は雨の中、傘を握り直した。
そしてゆっくり答えた。
「“雨の日だけ現れる道”だ。子供を探す“迷い道”。記憶の中で形を変える“何か”。名前は──」
少女の声が重なった。
――……さよ……
……こわい……
……あたし……
……いけないところに……いったの……
紗世の心が凍りつく。
「いけない……ところ……?」
零は静かに告げた。
「“雨鬼”だ。雨の日だけ子供を迷わせ、
道の奥へ連れて行く怪異」
クロが零の足元に寄り添い、低く唸る。
『紗世さんの友達……雨鬼に連れて行かれたんだ……』
雨が強くなる。
少女の影が震える。
零は紗世を見る。
「紗世。ここから先は“記憶ではない”。怪異の領域だ。それでも進むか?」
紗世は迷わず頷いた。
「……行きます。あの子を……一人にしないために」
零は静かに頷いた。
「よし。なら──最後まで見届けろ。少女の“声”がどこに残っているのか」
クロも勇ましく尾を立てる。
『あの日の続きを取り戻そう、紗世さん!』
霧が裂け、奥から“誰かの足音”が響く。
雨鬼の領域が、ついに姿を現そうとしていた──。




