第二十七話 雨傘の少女 ― 前半 ―
雨の匂いが、夜の街に満ちていた。
黒猫呪術代行事務所の窓ガラスを、静かに雨粒が叩く。
クロは窓際で耳をぴくぴく動かしながら外を眺めていた。
『零、雨だよ。なんか……今日の雨、変じゃない?』
零は机に肘をつき、静かに外へ目を向けた。
「雨は人の記憶を呼び起こす。嫌なものも、忘れたいものも、な」
クロは尻尾を丸めた。
『また変な怪異、来るかな……』
零は答えない。
ちょうどその時、ドアが控えめに叩かれた。
「……あの……すみません……」
現れたのは二十歳前後くらいの女性だった。
白いブラウスは濡れ、抱えた赤い子供傘も雨雫を滴らせている。
依頼人──
遠野紗世。
新規の依頼人名として重複なし。
紗世は胸に抱える傘を見下ろし、震える声で言った。
「……この傘から……“誰かがのぞいている”んです……」
クロは耳をぴんっと立てた。
『のぞいてる……?』
紗世は傘をそっと開いた。
ぱさり。
雨の匂いが部屋に広がる。
その瞬間──
傘の内側に“影”が揺れた。
それは、小さな子供の影。
雨に濡れた髪。
肩までのシルエット。
小さな手。
はっきりとは見えない。
しかし、確かに“そこにいた”。
紗世は涙ぐんだ。
「私、拾ったんです……駅前のゴミ置き場の近くに、この赤い子供傘が落ちてて……なんとなく捨てられなくて……持ち帰った夜から……ずっと、この影が……」
影は顔を上げた。
子供のような輪郭。
しかし顔は滲んでよく見えず、目の位置だけが微かに輝いている。
クロが零の袖を引く。
『零……この影……“記憶の形”だよ……幽霊じゃない……』
零も頷いた。
「これは“傘に残された最後の記憶”だ。子供の魂そのものではない」
紗世は震えながら呟いた。
「でも……この子……夜になると泣くんです……
雨の日は特に……ほんとうに……泣いてる声がするんです……」
クロは傘の影へ近づき、そっと呼びかけた。
『ねぇ……きみ、名前ある……?』
影は、かすかに揺れた。
まるで「言おうとしている」ような動き。
しかし、言葉にはならない。
零は紗世に尋ねる。
「この傘を拾ったのはいつだ?」
「三日前です……でもそれ以来、変なんです……
夜中の玄関に小さな足跡が濡れて残ってたり……
窓の外で笑い声がしたり……なのに誰もいなかったり……」
クロが小さく震えた。
『……これ……“会いたがってる”反応だよ。誰かを探してる……』
紗世はうつむいた。
「実は……小さい頃、仲が良かった子がいたんです。家の近くに住んでた少女で……いつも一緒に遊んで……よく雨の日に、この色の傘を差して……」
零の目が鋭く光る。
「その少女は──今も生きているのか?」
紗世の肩が強く震えた。
「……いいえ。突然いなくなって……見つからなくて……あれから、十年以上……」
クロが低く呟いた。
『紗世さん……この傘……“その子のものだ”……』
紗世は泣きそうな顔で頷いた。
「ええ……そうだと思います……私、その子の名前も……声も……笑い方も……全部覚えてるのに……最後の記憶だけ、思い出せないんです……」
零は、開かれた傘の影をじっと見つめた。
子供の影は紗世の方へ手を伸ばしている。
『……さよ……』
かすかな声が聞こえた。
紗世が震える。
「……いま……わたしの……名前を……?」
零はすぐに気づいた。
「違う。“呼んでいる”のではない。“呼ばれた記憶を再生している”」
クロは零を見上げる。
『零……どういうこと?』
「紗世──お前とその少女の“最後の瞬間”が、この傘に残っている。だが、少女は最後に何かを伝えられなかった。その“未完の記憶”が影として彷徨っている」
紗世の瞳が揺れる。
「……私に……伝えたかったことがある……?」
零は傘の影にそっと触れた。
影が揺れ、小さな声が溢れた。
――……みつけて……
……あの日の……つづきを……
……さよ……
紗世の膝が崩れ落ちた。
「……っ……!なにそれ……そんな……悲しい……そんなの……!」
クロの目にもうるんだ光が宿る。
『零……この子……紗世さんに“あの日の続きを見てほしい”……ちゃんと伝えられなかった最後の言葉……それを探してる……』
零は傘を閉じ、静かに宣言した。
「行くぞ。“あの日”へアクセスする。この傘を媒介にし、少女の残した記憶の場所へ向かう」
紗世は涙を拭き、零を見つめた。
「……お願いします……私……あの子の最後を知りたい……怖くても……逃げたくない……」
零は頷いた。
「その覚悟があるなら大丈夫だ。記憶に触れれば──少女が“本当に望んでいたもの”が分かる」
クロも強く頷く。
『行こう紗世さん。傘の中の影……ずっと待ってるよ……あなたのこと』
雨脚が強くなる。
まるで少女の記憶が零たちを呼ぶように。
外の夜雨は、“真実へ向かう道”を照らし始めていた。




