第二十六話 湖に沈んだ声 ― 後半 ―
湖底の闇が、生き物のようにうねった。
黒い影──湖喰い──は怒り狂い、無数の腕と裂け目のような口を広げて、零と亮臣に襲いかかる。
クロが悲鳴を上げた。
『零!! 影が……全部“亮臣さんを飲み込むつもり”だ!!』
零は亮臣を守りながら言う。
「分かっている。だからこそ──引き剥がす」
湖喰いは、湖に沈んだ死者の声・未練・恐怖を“自分の声”として保っている怪異。
亮臣の魂は、その餌として囚われていた。
零は筆を握りしめ、深い息を吐く。
「亮臣。今から魂を“分離”させる。湖に溶けかけた部分は切り離し、残った“核”を上へ返す」
亮臣は苦しげに頷いた。
――……ゆずきの……ところに……
……もどれる……?
「戻れるかどうかは、お前次第だ」
亮臣は目を閉じる。
――……逢いたい……
……もう一度だけ……
……声が……届けば……それで……
零はその願いを聞き、静かに筆を走らせる。
湖底の闇に光の文字が広がり、亮臣の身体を包む。
そして零は呪式を放った。
「式号──“剪魂”。魂と湖を切り離す」
光の線が亮臣の身体の輪郭に沿って走り、溶けかけた部分と“亮臣の核心”が分裂し始める。
その瞬間、湖喰いが怒り狂ったように咆哮した。
――オオオオォォォォォッ……!!
闇の渦が襲いかかってきた。
クロが叫ぶ。
『零!! 危ない!!』
零は亮臣を包むように抱き寄せ、周囲の闇に向かって筆を振った。
「退け。“声の主”を返す気はない」
闇が裂け、光が広がる。
水中とは思えない力で湖喰いの腕を弾き飛ばす。
しかし湖喰いは喰らいつくように形を変え、何度も襲いかかってきた。
亮臣の声が微かに震える。
――……ぼく……もう……のまれる……
……れい……さん……
……ゆずきに……つたえて……
……“すきだった”って……
……それだけ……で……
零は首を振った。
「まだ終わっていない。お前は選んだ。“柚希を落としたくない”と」
その言葉を聞いた瞬間、亮臣の魂がかすかに光を帯びた。
湖喰いが焦ったように揺れる。
――……クレ……
……カエセ……
……オトス……
……イキルナ……
クロが唸る。
『怒ってる……!亮臣さんが“戻ろうとしてる”から!!』
零は筆を大きく振り上げた。
「式号──“祓痕”」
光が湖底全体に走り、影が断ち切られる。
湖喰いは悲鳴のような声を残し、水の粒へと分解されていく。
やがて影は薄れ、ただ湖の闇だけが残った。
亮臣は胸に手を当てた。
――……ぼく……
……まだ……のこってる……?
零は頷いた。
「核は残った。まだ“声”は持っている」
クロがそっと零の隣に寄った。
『零……亮臣さんを引き上げるの?』
「ああ。だが湖に溶けた分はもう戻らない。魂のまま、声だけ残して“柚希に返す”。それが最も正しい」
亮臣は涙を浮かべた。
――……ありがとう……
……ゆずき……を……まもって……くれて……
零は亮臣の魂を抱き、湖の上へ向かって泳ぎ始めた。
闇が薄れ、水が光を帯びていく。
そして──
水面を破った。
「零!!」
湖のほとりで待っていた柚希が、零の姿を見つけて駆け寄る。
クロも湖岸へ跳び上がった。
『零!! 亮臣さんは!?』
零はそっと手を開き、光の粒となった亮臣の魂を柚希の前に差し出した。
柚希の目が、涙で震えた。
「……亮臣……?」
光の中から、亮臣の声が静かに響いた。
――ゆずき……
……ごめん……
……いきて……
……しあわせに……
……ありがとう……
……だいすきだった……
柚希は泣き崩れ、光に触れようと手を伸ばした。
零は目を閉じて呟く。
「もう、湖には囚われない。彼の声は“柚希に返すためだけに残ったもの”だ」
亮臣の光がふわりと柚希の胸へ吸い込まれていく。
柚希は震える声で言った。
「……ありがとう……本当に……ありがとう……」
零は静かに頷いた。
「亮臣は最後まで──お前を苦しめたくないと願っていた」
クロも涙をぬぐいながら微笑んだ。
『柚希さん……亮臣さん、すっごく優しい人だったよ……』
柚希は胸に両手を当てた。
「……でも……ちゃんと……さよならを言わなきゃ……じゃないと、前に進めないから……」
零は湖を振り返った。
湖は、もう何も呼ばなかった。
湖喰いの影も、声の残滓も、すべて消えていた。
ただ静かで、本来の湖の姿に戻っていた。
零は柚希に告げる。
「声はもう届かない。だが心の中の声まで消す必要はない。亮臣は──お前を愛していた」
柚希は涙をこぼしながら微笑んだ。
「……はい……私……生きます。亮臣が願った通りに……」
零とクロは、柚希に背を向けて歩き出した。
クロがぽつりと呟く。
『零……亮臣さん、救えてよかったね』
「魂が消えずに済んだだけだ。救えたのは、柚希の方だ」
クロは小さく頷いた。
『零……やっぱり優しいよね』
零は答えなかったが、その横顔にはいつもより少しだけ柔らかい影が差していた。
夜の湖の風がそよぎ、零とクロをそっと押すように吹いた。
二人は静かに帰路についた。
湖は、もう何も呼ばなかった。




