第二十六話 湖に沈んだ声 ― 中半 ―
湖の底は、“音のない世界”だった。
水音も、波の揺らぎもない。
ただ、沈黙と闇だけが広がっている。
だがその沈黙の中──
ひとつだけ、確かな声が響いていた。
――……ゆずき……
零は水を切りながら、その声の方へと進む。
クロの声が、精神に直接響いてきた。
『れいっ……! 大丈夫!?水の圧、強すぎる……!普通の湖じゃないよコレ……!!』
「分かっている。ここは“現実の湖”と“魂の底”が混ざった場所だ」
水圧は重いのに、身体は沈まないでも浮かないでもなく、ただ“空間に留められている”。
底に近づくほど、恋人──亮臣の声が濃くなる。
――……ゆずき……
……さびしい……
……こわい……
……ひとりに……しないで……
零は小さく呟く。
「……これは“恋人の声ではない”。“恋人の心を喰おうとする湖の声”だ」
その時だった。
闇の下から、白い手が伸びてきた。
人間のものに見えるが──
指の関節が不自然に曲がり、水草と泥が絡みついている。
クロの悲鳴が響く。
『零!! 下!!亮臣さんじゃない……“混ざった魂”!!』
零は筆を構え、迫りくる腕を切り払った。
水の中であるはずなのに、墨は鮮やかに広がり、切りつけられた腕が泡のように消える。
だが次の瞬間──
十本、二十本と、無数の“腕”が闇から伸びてくる。
柚希の声を真似て叫ぶ。
――ゆずきっ……
……こい……
……いっしょに……おちて……
零は腕の群れを見据え、静かに呟いた。
「“柚希の声を真似ている”……か。なら、まだ亮臣の魂は食われていない」
クロの声が震える。
『じゃあ……亮臣さんの“本物の声”は……!?』
「深い闇の奥だ」
零はさらに深く潜り、圧力が増す中で意識を研ぎ澄ます。
そのとき──
水の底から光が滲んだ。
幻のような光。
その中に、人影がゆっくりと浮かんできた。
白いシャツ。
黒い髪。
淡い輪郭。
まるで水に溶けるように揺れているが、その面影は確かに“人”だった。
クロが息を呑む。
『……零……!あれ……亮臣さん……!?』
零は少し目を細める。
「魂だ。しかし……状態が悪い」
亮臣の魂は、身体の半分が湖の影に“溶けていた”。
輪郭が千切れ、ところどころが黒い水の粒になって漂っている。
零が近づくと──
亮臣の口が動いた。
――……ゆず……き……?
……どこ……?
その声は弱く、掠れていたが、偽物の呼び声とは違い、“誰かを探す温度”があった。
零は静かに告げる。
「柚希は上で待っている。だが──彼女を呼んで落とすつもりなら、お前をここから出すことはできない」
亮臣は首を振る。
――ちが……う……
……よんで……ない……
……よんで……ない……んだ……
……ぼくは……
……ただ……“声を、返しただけ”……
クロが零の服を引いた。
『零……これ……湖喰いが柚希さんの声を真似たのは……亮臣さんの“返事”のせい……?』
零は頷いた。
「そうだ。彼は“呼ばれた声に応えただけ”。だがその応えを湖が利用した」
亮臣の顔が苦しげに歪む。
――……たすけて……
……ぼく……ここに……
……しずんで……
……おもいだして……
……ねがったら……
……また……よばれた……
……ゆずきと……あいたくて……
クロの目に涙が浮かぶ。
『亮臣さん……本当に柚希さんが好きだったんだ……』
亮臣は沈むように膝をつき、目を伏せた。
――でも……
……このまま……
……ぼくは……“湖になる”……
……ゆずきを……
……おとしたく……ない……
零はその言葉にわずかに目を見開いた。
「“湖になる”……?」
クロも震える声で聞く。
『湖になるって……どういうこと……?』
零は静かに答えた。
「この湖は、“人の声を喰って広がる湖”だ。食われた魂は時間をかけて湖に溶け、最後には湖そのものの一部になる」
クロは息を呑む。
『じゃあ……亮臣さんは……本当にもう……』
「時間がない」
零は亮臣の肩に触れた。
「亮臣。もう一度だけ聞く。柚希が、お前を救うことを望むと思うか?」
亮臣は苦しげに微笑んだ。
――……しあわせに……
なってほしい……
……ぼくとじゃなくて……
……だれかとでも……
……それでも……
……いきて……ほしい……
その言葉は紛れもなく“生きていた頃のもの”だった。
湖喰いには絶対に言えない言葉。
クロは涙をこぼす。
『零……助けよう……この人の魂、消したくない……!』
零は小さく頷いた。
「亮臣。お前の魂を“湖から引き剥がす”。ただし──痛みは伴う。耐えられるか?」
亮臣は頷いた。
――……ゆずきに…………ありがとうって…………つたえて…………くれ……
零は筆を構える。
「必ず伝える。だから──帰る道を選べ」
その瞬間、湖底が大きく揺れた。
黒い影が怒ったように襲いかかってくる。
クロが叫ぶ。
『零!! 湖喰いが全部集まってきてる!!“亮臣さんを返さない”って怒ってる!!』
水が爆ぜ、影が渦のように広がる。
零は亮臣の魂を抱き寄せ、闇へと向き直った。
「来るなら来い。奪わせはしない」
湖底が鳴動し、怪異と零の戦いが始まった。
――柚希の恋人の魂を救うために。




