第二十六話 湖に沈んだ声 ― 前半 ―
湖は、夜になると息を潜める。
昼間は観光客の声で満ちるこの湖も、今は、水面が鏡のように静まり返り、風の音すら途絶えていた。
事務所に依頼が届いたのは、夕暮れが沈みきって間もない頃だった。
依頼人──
神谷柚希、二十八歳。
落ち着いた雰囲気だが、その瞳の奥には、“時間が止まったような影”が沈んでいる。
柚希は震える指を組みながら、ぽつりと語り出した。
「……湖の方から、私の名前を呼ぶ声がするんです」
零は視線を上げる。
「いつ頃からだ?」
柚希の喉がひくりと揺れた。
「三年前……。婚約者が、あの湖で亡くなってから……です」
クロが零の肩で身をこわばらせた。
『婚約者……湖で……?』
柚希は小さく頷いた。
「彼は泳げない人じゃなかった。むしろ、水の事故なんて考えられない人で……なのに突然、湖に引きずり込まれるように沈んでいったって……」
唇が震え、声が掠れる。
「それ以来ずっと……夜になると湖から聞こえるんです。“柚希”って……彼の声で……」
クロの尻尾が逆立つ。
『零……これ、ただの残留じゃないよ……“呼んでる”声だ……』
零は静かに頷いた。
「水場には、死者の声が残ることがある。だが三年も続くのは異常だ」
柚希は両手を強く握り込んだ。
「最初は幻聴だと思っていました……でも、違うんです。本当に……彼が呼んでいる気がして……
“迎えに来て”って……“下りてきて”って……」
クロは不安そうに零を見る。
『……零、“湖喰い”の匂いがする……あれ、死者の声を“真似る”怪異……』
零は柚希に向き直った。
「心配するな。声が本当に婚約者のものか──あるいは怪異の囁きか──俺が確かめる」
柚希は、今にも崩れそうな目で零を見つめた。
「……お願いします……彼が苦しんでいるなら助けてほしい。もし違うなら……私はもう、この声に縛られたくない……」
零は立ち上がる。
「案内しろ。湖へ行く」
柚希は震える息を吐き、頷いた。
クロも尻尾を揺らして跳び降り、零の足元に並ぶ。
『行こ、零……湖の声、私も気になる……』
三人は湖へ向かった。
湖のほとりは、まるで世界から切り離されたように静かだった。
灯りも少なく、月光だけが湖面を白く照らしている。
柚希は、湖の一点を指さした。
「あそこです……彼が沈んだ場所……」
その時。
湖の向こうから──
確かに声が聞こえた。
――……ゆずき……
クロは毛を逆立てる。
『ほんとに……声がした……!!人の声……でも……』
零はわずかに眉を寄せた。
「“似せた声”だな。本物ではない」
柚希は目を大きく見開き、震えた。
「違う……の……?でも……どうして……?」
零は湖の奥を睨む。
「理由は二つ。ひとつは……お前の未練。もうひとつは……“湖の怪異の餌にされている魂”だ」
その言葉と同時に──
湖面から黒い影が伸び上がった。
柚希が悲鳴を上げる。
「きゃっ……!」
クロが前に飛び出した。
『零!! 来るよ!!これ、“湖喰い(みずうがい)”!!死者の声を真似て、生者を引き込む怪異!!』
黒い影は裂け目のような口を開き、柚希の名を呼ぶ。
――ユズキ……
呼び声は穴の底から響くようで、婚約者の声とは似て非なるもの。
柚希の脚が震える。
「やめて……やめて!!彼の声を……奪わないで……!」
零が一歩前に出た。
「柚希。落ち着け。あれは彼ではない」
影が柚希に手を伸ばした瞬間──零は筆を構え、湖へ飛び込んだ。
「クロ、柚希を守れ。俺は“本物の声”を確かめに行く」
クロが叫ぶ。
『零!! 一人じゃ危ない!!』
零は湖の闇へ沈みながら答えた。
「本物の声なら……俺を拒まない」
深く。
暗く。
底へ。
その奥で、確かに別の声が響いていた。
――……ゆずき…………かえり……たい…………いっしょに……いた……かった……
それは、柚希の婚約者・結城亮臣──生前の名を呼ぶ声だった。
しかしその声は、もう人間ではない“水の奥底の響き”に変わっていた。
零は湖底へ向かいながら、静かに目を細めた。
(……魂はまだ沈んでいる。消えてはいない。だが──湖と“混ざり始めている”)
水が零を包む。
湖底へ沈んだ恋人の声が、哀しげに囁いた。
――……ゆずき…………いっしょに……おちて……
その呼び声の正体こそ、この湖に潜む“真実”だった。




