外伝5 きさらぎ駅 ― 後半 ―
線路の上は、不気味なほど静かだった。
足を踏み出すたび、砂利がわずかに音を立てるだけで、他のすべてが沈黙している。
クロは零の肩にしがみつき、震える声で囁く。
『零……後ろ、影たちがまだついてきてる……』
零は振り返らずに答える。
「分かっている。語りたがっているのだ。“ここから先に行くな”と」
『行くよね?』
「もちろんだ」
クロはうっすら涙を浮かべながらくすっと笑った。
『零って……たぶん、怪異より怖いよ』
トンネルの入り口は、まるで巨大な口のように広がっていた。
空気は重く、湿り、墓地のように冷たい。
その暗闇の奥から、何かが“こちらを見ている”。
零は筆を握りしめた。
「ここが主のいる場所だ」
クロは息を殺した。
『零……聞こえる?』
「……ああ。声がする」
闇の奥から──
ゆっくりと、かすかな“歌”のような音が響き始めた。
それは人の声ではなかった。
だが、不思議と懐かしく、胸の奥を締めつけるような旋律。
「……た……す……け……て……」
クロが息を呑んだ。
『人の……声?』
「いや、“混ざっている”。人だけではない」
やがて闇の中から“白い影”が現れた。
だが先ほどの少女とは違う。
より淡く、より薄く、まるで布のような身体。
その影は左右に揺れ、零たちの前で立ち止まった。
そして、後ろへ道を示すように指を動かした。
『……戻れって、言ってる……?』
いや、と零は言う。
「“来い”と言っている」
クロが驚く。
『え……?今の……戻れじゃなくて……来い、なの……?』
零は頷いた。
「視線の向きと、指の角度が逆だ。あれは俺たちを“主のもとへ案内”している」
クロの目が見開かれる。
『じゃあ……やっぱり零、呼ばれてる……!』
零はその影の後ろに広がるさらに深い闇へ目を向けた。
「行くぞ、クロ。ここが“呼ばれた先”だ」
影に導かれるように、零は闇の奥へと踏み入った。
そこは、駅ではなかった。
線路も壁も消え失せ、一面がぼんやりとした白い霧に包まれている。
地面があるのかも分からない。
ただ立っているという感覚だけがあった。
クロが震えながら言う。
『零……ここどこ……?駅じゃない……迷界……?』
「違う。“駅に迷い込んだ魂が落ちる場所”──いわば、この駅の“腹の底”だ」
その時。
霧がゆらりと揺れ、形になりはじめた。
最初は歪な塊だったが、徐々に、人のような姿が浮かびあがる。
いや、複数の人間の影が重なり合ってできた“塊”。
その身体は何百もの断片で構築されていた。
手の形、足の形、顔のパーツ、髪の房、服の切れ端……
すべて“迷ってここへ落ちた人間たちの残滓”。
クロは言葉を失った。
『……これ……“きさらぎ駅の主”……?』
零は、静かに首を縦に振った。
「迷った魂が、行き場を失い重なり合い──“駅そのもの”になった存在だ」
巨大な塊がゆっくり頭をもたげ、零たちを見つめた。
『…………た……す…けて…………』
何百、何千という声が重なって響く。
クロは涙目になりながら叫んだ。
『零!! 助けられるの!?こんなの……一人の願いじゃない……!!!』
零は前へ進んだ。
「助けるのではない。“分ける”のだ」
クロは驚き、尻尾を逆立てた。
『分ける!?』
「そうだ。これは“無数の迷いが混ざりすぎた結果”だ。本来ならひとつひとつ別の魂。同じ場所に積み重なったせいで、怪異となってしまった」
塊の中から、また声が漏れる。
『……かえりたい……いきたかった……さみしい……こわい……だれか……』
零は目を閉じ、深く息を吸った。
「式号──“還道”。魂よ、迷いを解け。祈りの数だけ、道を分かち、それぞれの行くべき場所へ還れ」
筆を振ると、霧の中に“数えきれない道筋”が描かれていく。
まるで巨大な迷路が光で作られていくようだった。
クロは息を飲む。
『零……っ……!そんなの、零ひとりじゃ……!!』
零は笑った。
「俺ひとりではない。お前がいる」
クロの目に涙がこぼれた。
『零……!!』
光の道が塊に触れると、一つ、また一つと影が剥がれ落ちていく。
母を探す子供の影。
家に帰りたい青年の影。
恋人を失った女性の影。
名も残さなかった人々の影。
それぞれが光に吸い込まれ、霧の向こうへ消えていく。
巨大な塊は徐々に小さくなり、苦しげな呻き声がやがて弱まり──
最後にはひとつの“少女の影”だけが残った。
白い影。
零たちがホームで出会った少女だ。
少女は静かに顔を上げ、言った。
「……ありがとう……みんな……やっと帰れた……わたしも……いかなきゃ……」
零は頷く。
「もう迷わずに行け」
少女は微笑んだ。
初めて、人間らしい笑みだった。
「……あなたたちも……気をつけて……出口は……戻った先に、必ず、ある……“帰りたい”と願えば、道は開く……」
少女は光の中へ溶けるように消えた。
周囲の霧も薄れ、線路とトンネルが元の姿へと戻る。
クロが安堵の息をついた。
『零……本当に……帰れるの……?』
零は前を向いた。
「帰れる。なぜなら──“帰りたい”と思っているからな」
クロは零の胸に額を押し付ける。
『……帰ろう……零……事務所に……帰ろう……』
零は頷き、線路を歩き出した。
やがて視界が白く滲み、次の瞬間──
零とクロは、見慣れた電車の座席に戻っていた。
車内には数人の乗客。
窓の外には見覚えのある夜の街。
クロが驚愕して声を上げる。
『……帰ってこれた……!』
零は窓の外を見たまま静かに言う。
「“戻る道”は、自分の意思で決まる」
電車が次の駅に停まり、アナウンスが流れる。
――「次は、黒猫町。黒猫町です。」
クロがふにゃっと力の抜けた声を出した。
『もう二度と……電車で怪異には会いたくない……』
零は小さく笑った。
「呼ばれなければ、会わないさ」
クロは零の手に身体を寄せた。
『零……帰ってこれてよかった……』
「そうだな。帰りたいと思ったからな」
電車は、静かに夜の街を走っていく。
きさらぎ駅はもうない。
影も霧も、あの声も。
ただ、零とクロの足元には確かな“現実”だけが戻っていた。




