外伝5 きさらぎ駅 ― 中半 ―
暗闇から伸びた腕が、風を裂くような音を立てて零の顔面めがけて迫る。
だが零は半歩だけ身体をずらし、紙一重で避けた。
腕は宙を切り裂き、ホームの床を叩く。
“ゴン”という鈍い衝撃音が響き渡る。
クロが叫ぶ。
『零!! あれ、“影喰い”じゃないよ!!もっと……もっと深い……!』
零は筆を構えたまま、闇の奥を睨む。
「魂を喰う者たち──“駅の底に棲むモノ”だ。迷った魂を餌にして、形を保っている」
もう一本、腕が飛び出す。
零は筆を一閃させ、床へ墨を走らせた。
「式号──“封脚”」
墨が床の模様となり、伸びてきた腕がそこに触れた途端、バチンと火花を散らした。
影の腕は後退りしながら、甲高い金属音のような悲鳴をあげる。
クロが零の肩に飛び乗り、耳を伏せる。
『零……あれ、ひとつじゃない!!』
闇の奥から、複数の影が一斉に動き出した。
形は人のようで、だが手足は長く歪み、全身が墨を流したように黒い。
その“顔”らしき部分には穴が空き、その穴の奥でかすかに“白い目”が蠢いている。
ひとつ、またひとつ。
影が線路側から這い上がってくる。
クロは震えた声で零にしがみつく。
『零……!あれ全部“迷った魂の残りカス”……!!心も記憶も夢も全部喰われて……ただの空洞になった奴ら……!!』
零は影の群れに筆を向ける。
「来るか。いいだろう」
影たちは一斉に、無言で零に向かって走り出した。
そのとき。
さっき現れた“白い影の女”が、零の前に立ちはだかった。
「……にげて……ください……ここは……あなたたちのいる場所じゃ、ない……」
声は遠い。
だがその声には、必死さがあった。
零は目を細める。
「お前は……何だ?」
女はかすかに揺らぎながら答える。
「わたしは……この駅で、迷って……でも……“喰われなかった”……そのかわり……“ここに縛られた”……もう、どこにも行けない……ただ……来た人に……警告することしか……」
クロが息を呑む。
『……零……この人……“喰われなかった”せいで……骸のまま残ってる……本当は消えたいのに……消えられないんだ……』
零は女の顔を見つめた。
闇の中でも、その瞳だけは優しかった。
影を食べる者ではなく、影に食われる前に、誰かを守ろうとした者の瞳。
「ここから……出ていって……“戻れる人”と……“戻れない人”が、いる……あなたたちは……まだ、戻れる……だから……早く……」
しかしその瞬間。
影の群れが彼女の背後に迫る。
ざわり──
“白い影”の足が揺らぎ、身体が破れそうに薄くなる。
クロが叫ぶ。
『危ない!!』
零は筆を振るい、女の前へ墨の壁を展開した。
影たちは壁にぶつかり、ガリガリと音を立てながら、無数の指で引っ掻く。
唸り声とも悲鳴ともつかない音が、地下の空気を震わせた。
白い影は驚いた顔で零を見た。
「ど……どうして……わたしなんか……助ける……?」
零は答えた。
「お前は“ここへ来た理由”を知っている。それを聞くまでは、消えられると困る」
女は震える声で笑った。
「……ふふ……変な人……」
クロが涙目で訴えるように言う。
『零……! 本気で危険なんだよここ!!出ようよ!! 女の人のことは後で調べよう!?』
零は影群を見据えたまま、静かに言う。
「いや……“呼ばれた理由”を確かめずには帰れない」
クロは肩を震わせた。
『れ、零……!呼ばれた理由なんて、怪異の気まぐれかも──』
零は首を振る。
「違う。“きさらぎ駅”は人を選ばない。だが──
呼ばれる者は選ばれる。」
クロは息を飲む。
零は続ける。
「俺たちは“この駅の主”に呼ばれた。理由がある」
白い影は静かに頷いた。
「……あなたたち……本当に、呼ばれたんだと思う……」
零は影の壁の向こうを指差す。
「主はどこだ?」
女は震えながら指をさした。
「……線路の……奥……“トンネルのその先”……
進んだ者は……二度と戻らない……そこに……主がいる……」
クロはぞっとして零の首元にしがみつく。
『零!! だめだってば!!そこに行った人は皆……“戻ってこない”って言われてるんだよ!!死んじゃうよ!!』
零はクロの頭を撫でた。
「大丈夫だ。お前がいる限り、俺は迷わない」
クロは涙のにじむ目で見上げる。
『……零……そんな言い方ずるいよ……』
零はわずかに微笑み、トンネルへ向かう線路に視線を移した。
白い影も、震えながら言う。
「行くなら……早く……影たちが……本気を出したら……あなたたちでも“持たない”……」
影群は低く唸り、壁を破ろうと蠢いている。
クロは決意したように鼻息をして、零の肩から線路を見る。
『……行くの?』
「ああ」
『本当に?』
「ああ」
クロは小さく頷き、零の肩にぴたりとしがみついた。
『……いっしょに行くよ。絶対にぜったいに離れないから』
零は線路に一歩踏み出した。
トンネルの闇が、こちらを口を開けて待っている。
白い影は最後に言った。
「……気をつけて……“戻る道”は……あなたたちで作らないと……この駅には、出口が……ないから……」
零は振り返らず答えた。
「出口がないなら──作ればいいだけだ」
影たちの咆哮がこだまするなか、零とクロは“きさらぎ駅の奥”へと進んでいった。
“駅の主”に会うために。
“呼ばれた理由”を知るために。
そして──
迷った魂の少女を、ここから解放するために。




