外伝5 きさらぎ駅 ― 前半 ―
電車が滑るようにホームへ入ってきた。
依頼帰りの夜。
零とクロは久しぶりに電車を使うことにして、終電間近の車両に乗り込んだ。
静かな車内。
数人の乗客がぽつぽつと座っているだけ。
窓の外は深い夜の闇で、時折すれ違う光が線を引いて消えていく。
クロは零の膝に丸くなりながら、流れる景色をじっと見ていた。
「ねえ零。今日の依頼、なんか長かったよねぇ……疲れたぁ……」
「お前が勝手に依頼人の膝に乗って慰めていたせいだろう。俺より働いていたではないか」
「だってあの人、泣いてたんだもん。放っておけないでしょ?」
「……そうだな」
零の声は静かで、少し優しい。
電車はゆっくりとトンネルに入り、窓の外は漆黒に染まった。
風の音だけが妙に大きくなる。
まばらだった乗客の姿が気づけば二、三人になっていた。
終電だからだ、とクロは特に気にしていなかったが──
ふと、違和感が走った。
『……れい?』
「どうした」
『次の駅……なんだか、変な感じ』
クロが立ち上がり、窓ガラスに両手をつく。
暗闇の奥に、ぼんやりと光が浮かんでいた。
電車が徐々に減速をはじめる。
しかし──
車内アナウンスが流れない。
「……? 停車駅のアナウンスが……ない」
零も眉をひそめる。
電車はそのまま静かに、見たことのないホームへと滑り込んだ。
ガタン、と揺れて停車。
扉が開く──
が、人の気配はまったくない。
外は薄暗く、蛍光灯が数本だけ光っている。
そして、ありえないほど静かだ。
クロは耳を伏せる。
『……なんか、空気が“死んでる”……』
零は立ち上がり、周囲を見渡した。
駅名表示板があった。
だが──
「き さ ら ぎ」
と、かすれた文字で書かれている。
クロが背中の毛を逆立てた。
『零……! ここ、やばい……!!“向こう側”の匂いがするよ……!』
零は落ち着いた表情のまま駅のホームを一瞥した。
「……きさらぎ駅、か」
『知ってるの!?』
「ほんの噂話だがな。“存在しないはずの駅に降り立つ”という怪談だ。戻れた者もいれば、戻れなかった者もいる」
クロの喉が強張る。
『ねえ……ねえ零、降りる? 降りない方が良くない?車内にいたほうが安全なんじゃ──』
零は少し目を細めた。
「車内も安全ではない。見ろ、乗客は……」
クロは振り返って息をのんだ。
つい数分前まで
二、三人座っていたはずの乗客が──
一人もいなかった。
座席はすべて空っぽ。
窓に映るのは、零とクロだけ。
『どこ……行ったの……?』
「“駅に着く前に”降ろされたのだろう。ここへ来る必要のある者だけが残った」
クロは震えながら零の肩に登る。
『必要があるって……何の……?』
零は言った。
「呼ばれたのだ」
『呼ばれたって、誰に!?』
零はゆっくりとホームに一歩降りた。
「……“この駅の主”だ」
クロは必死に止めようとするが、零の足はもうホームに触れていた。
途端に、空気が変わる。
風が止み、ホームの灯りが一つ、また一つと点滅する。
ゆっくりと、プラットホームの奥から“かすかな足音”が聞こえた。
コツ……
コツ……
コツ……
誰かがこちらへ近づいてくる。
クロの喉が低く唸る。
『零……“人間じゃない”よ……!』
零もそれを理解していた。
彼の視線の奥に、微かに黒い光が宿る。
「クロ、後ろに下がれ。これは“呪い”ではない。“迷い込んできた魂の道標”だ」
足音が近づく。
暗闇の奥から、白い影がゆらりと現れた。
長い髪。
こちらを見ているようで、見ていないような
ぼうっとした目。
しかし一番異様だったのは──
足が地面に触れていなかった。
浮いていた。
クロは震えた声で叫ぶ。
『零……無理だよ……! これ、“人”じゃない!!』
零は一歩前に進む。
「……ああ、そうだ。
だが“救いを求めた者”なのは間違いない」
影は零の前で立ち止まった。
唇が微かに動く。
「……たす……けて……」
声は、風のように薄かった。
そこには怨念の濁りはなく、ただ純粋な“迷い”だけがあった。
零は静かに問う。
「お前は、この駅に囚われた存在か」
影はこくりと頷いた。
その瞬間──
ホーム全体が揺れた。
空気がざらりと震え、天井の蛍光灯が連続して明滅する。
クロが叫ぶ。
『零!! 後ろ!!!』
零が振り返ると、駅の反対側──暗闇の底から、
複数の“何か”がこちらを覗いていた。
真っ黒な手。
伸びすぎた腕。
影のようにゆらめく脚。
この駅で迷った魂を喰らう存在。
零は筆を握った。
「クロ。ここは“魂の中間駅”だ。迷った者と、喰らう者がいる。救うべき者を見誤るな」
『わ、分かってるけど……!ぜったいここ、普通の怪異じゃないよ!!』
零は少しだけ笑った。
「知っている。だからこそ――面白い」
その瞬間、暗闇から“腕”が飛び出した。
零とクロは、きさらぎ駅の深層へと巻き込まれていく。
“迷った魂を救うために”
“この駅に呼ばれた理由”を知るために。
そして、零自身の“影”が試される夜が始まる。




