第二十五話 赤い鎖の少女 ― 後半 ―
零の意識が戻ったとき、世界は“静寂”に沈んでいた。
さっきまで揺れていた廊下も、暴れ狂っていた赤い縄も、何もかもが止まり──
まるで時間ごと凍りついたようだった。
ただ一つだけ。
廊下の奥に灯る、小さな白い光だけが動いていた。
零は立ち上がる。
足元にはクロがいた。
身体を低くし、赤い縄の残骸を睨みながら息を整えている。
『れ……零、大丈夫?』
「ああ。すまない、少し飛ばされた」
クロは震える声のまま、零の足に額を押しつけた。
『良かった……本当に、良かった……』
零は軽くその頭を撫で、奥に揺れる白い光へ目を向けた。
「……あれが、“母の本当の願い”だ」
クロもそちらを見る。
『さっきの怪異とは、まるで違う……』
光はやがて、人の形を取った。
梢の母──
しかし、先ほどとは違う。
赤い縄に覆われていた顔は清浄で、涙の跡を残したまま、静かに微笑んでいた。
零は一歩近づく。
「……これが、お前の“祈り”か」
女性は小さく頷き、掠れた声で言葉を紡いだ。
「守りたかった……だけなんです。あの子は小さくて、弱くて……私も弱くて……夫もいなくなって……二人で支え合っていくしかなかった……」
零は黙って聞いた。
「でも……いつの間にか、私は“離れられるのが怖く”なっていた。あの子が成長するのが……喜ばしいのに……恐ろしくもあって……それで……紐に、願いを込めてしまって……」
声が震える。
「“絶対に離れないで”なんて……本当は言いたくなかった……あの時の私は……ただ、孤独だったんです……あの子よりも、私のほうが……弱かった……」
クロが小さく息を呑んだ。
女性は続ける。
「死んだあと、私はすぐに消えるはずでした……
でもあの紐が私を繋ぎ止めた。“あの子の声を聞きたい”という私の弱い願いが……呪いになってしまった……」
零は静かに問う。
「梢をどうしたい」
女性は涙を流しながら、しかしはっきりと答えた。
「生きてほしい。私ではなく……自分の未来へ……あの子は、あの子の人生を歩むべきです……」
それは紛れもなく母の愛だった。
零は深く頷く。
「ならば、祈りを“紐”から解き、お前の魂を閉じよう」
女性はわずかに微笑んだ。
「お願いします……あの子を……自由にしてあげて……」
零は筆を取り、女性の胸元へ軽く触れさせる。
「式号──“帰魂”。魂は主へ、祈りは空へ、縛りは静かに解けよ」
墨が白い光へ吸い込まれ、梢の母の姿がゆっくりと淡くなった。
零を見つめる瞳は、もう苦しみを帯びていない。
「……こずえを支えてくれて、ありがとう……あなたが来てくれて……良かった……」
零は答えた。
「礼を言うのは俺の方だ。母の祈りを見せてくれたからな」
女性は涙を一筋落とし、静かに光へと溶けていった。
その瞬間、世界に張り付いていた赤い縄がすべて音を立てて崩れた。
クロがほっと息を吐く。
『……終わった……の?』
「ああ。後は梢の手首の紐を“解く”だけだ」
零は現実へ引き戻される感覚に身を任せた。
零が目を開けると、結界の中心で梢が泣きながら手首を押さえていた。
その右手には、
かつて彼女を縛っていた赤い紐が──
柔らかい“一本の糸”になって落ちていた。
梢は涙で濡れた顔を零へ向ける。
「……せんせい……!お母さん……笑ってた……
すごく……すごく……優しい顔で……」
零は背を向けることなく答えた。
「お前を“手放すこと”を選んだからだ」
梢は震えながら糸を拾い上げる。
「……これ……どうすれば……」
零は静かに言う。
「持っていけ。祈りだけを残して、呪いは消えた」
クロが梢の足元で笑う。
『それは“お守り”になるよ。お母さんがあなたに残した、優しい部分だけ』
梢は糸を胸に抱きしめて泣き崩れた。
泣き尽くしてから、深く頭を下げて言った。
「ありがとうございました……私、生きます……。お母さんのためにも……私のためにも……」
零はただ静かに頷いた。
梢は事務所を出ていく。
扉が閉まったあと、クロは零の膝の上に飛び乗り、ため息をついた。
『零……大丈夫?さっき何回も心を引っ張られてた……』
「問題ない。母の愛は俺の影を揺らすほどのものではない」
クロはじっと零の顔を見る。
『……でも、ちょっと軽くなった顔してるよ』
零は少しだけ笑った。
「そうか」
クロは胸を張る。
『うん。零の影は、私がずっと照らしておくからね』
零はその小さな頭を撫で、灯りの落ちた事務所を見渡した。
赤い紐も、母の気配も、もうどこにもない。
ただ静かに、優しい夜だけが残っていた。




