第二十五話 赤い鎖の少女 ― 中半 ―
梢の手首に巻きついた赤い紐が、結界の中心でぐらりと形を変え始めた。
ただの“紐”ではない。
細い filament が無数に伸びて、空気を探るように揺れ──
やがて梢の指先を舐めるように触れた。
ぴたりと動きを止めた紐は、“嬉しそうに”脈打った。
まるで、生きた心臓の一部。
“こずえ……見てるよ……お母さんはここにいるよ……早く来て……一緒にいよう……”
梢の顔色がすっと青ざめた。
その声は懐かしく、優しい。
だが、聞いてはいけない毒のように甘い。
クロが零の肩に爪を立てる。
「零……だめだよ、あれ、もう“魂の形”になってる……紐じゃなくて、“母親の心臓の残り”みたい」
「分かっている」
零は筆を握り直し、結界の中心に座ったまま目を閉じた。
「梢。これより“お前の母の心の中”へ入る。俺の声が聞こえる限り、現実から離れるな」
梢は震える声で返す。
「……は、はい……」
零が深く息を吸い込むと──
赤い紐が突然“ぶちり”と音を立てて裂けた。
次の瞬間。
世界が裏返るような感覚が、零の意識を飲み込んだ。
気づけば、零は暗い廊下に立っていた。
壁は剥がれ、照明はチカチカと点滅している。
どこか懐かしい匂い──
これは、実在した“梢の家”の記憶だ。
クロの声が小さく響く。
『零……聞こえる?』
「大丈夫だ。こちらの声は届いている」
『気をつけて。これは梢ちゃんの“記憶”じゃないよ。“母親の心”だよ。母が見た世界。母が願った世界……』
零は廊下を歩く。
ただ歩くだけで、床がぎしぎしと悲鳴をあげる。
と、その奥。
白いワンピースを着た女性が背中を向けて立っていた。
髪はぼさぼさで、肩が小刻みに震えている。
梢の母。
彼女は気づいていないのか、壁に向かって必死に話しかけていた。
「……こずえ……?どこに行ったの……?お母さん、ずっと待ってたのよ……?」
零は声をかける。
「七瀬 梢の母だな」
その瞬間、女の肩がピクリと跳ねた。
ゆっくり振り返る。
目は真っ赤に滲み、頬は涙で濡れ、唇は噛みすぎて血が滲んでいた。
だが顔の半分は──
赤い“縄の跡”で覆われていた。
零は一歩踏み込む。
「お前は死んだ。それなのに、娘をここへ引きずり込もうとしている」
女はかすれた声で笑った。
「だって……もう離れたくないの……あの子は、私が守らなきゃいけない……。誰にも渡さない……!」
零は顔色ひとつ変えずに言う。
「お前の“守る”は、呪いだ。梢の未来を奪う呪いだ」
女の目から、ぽたりと涙が落ちる。
「違う……違うの……こずえが生まれた日、私は決意したの……“絶対に幸せにする”って……あの子は私のすべて……だから……離れたくないの……死んでも……消えても……」
声は確かに“母親の声”だった。
しかし零は首を横に振る。
「その願いは“愛”ではなく、“執着”だ」
女は震え始める。
「違う……!私は……ただ……側に……」
零は静かに告げる。
「ならば問う。梢はどうしたい?」
女の瞳が揺らぎ、壁の奥から──誰かの声がした。
“……お母さんには消えてほしくない。でも……私は、生きたい……”
梢の声。
その瞬間、女の表情がぐしゃりと崩れた。
「……いや……いやだ……私はあの子といなきゃ駄目……あの子も、私といなきゃ駄目なの……離れたら……私……なにも……!」
零は歩み寄り、彼女の腕を掴んだ。
「お前の願いは“こずえを守ること”。その願いは本物だった」
女の目から、大粒の涙が零れ落ちる。
「なら──今こそ、娘を“解放”してやれ」
女は震えながら、ゆっくりと零の手を見つめた。
その瞬間。
廊下の奥から、巨大な“赤い縄”がうねりながら現れた。
梢の母の“執着”が完全な怪異へ変わった姿。
クロの声が叫ぶ。
『零! 来るよ!!』
赤い縄は蛇のように襲いかかる。
零は筆を振り上げる。
「式号──“縫鎖”!!」
墨が鎖の形に広がり、赤い縄と激しくぶつかった。
“ぎぃぃぃぃぃ!!”
女は頭を抱え、膝をつく。
「やめて!!その子は……私のすべてなの!!あの子だけは……奪わないでぇ!!」
零は叫ぶような声で告げる。
「梢の人生は、梢のものだ!!母の願いだけで縛っていいものではない!!」
赤い縄がさらに力を増し、零の胸へ向かって突き刺さる。
クロが零の肩から飛び出し、叫ぶ。
『零!! 私が抑える!!』
「クロ、無茶はするな!!」
『零が死んだら全部終わりだよ!!』
クロは赤い縄へ飛びつき、その根元に爪を立てた。
縄が悲鳴のような音を上げて暴れる。
零は筆を握り直し、全身の力を込めて叫んだ。
「七瀬梢の母!!お前の願いを見せろ!!呪いではなく──本当の“祈り”を!!」
世界が白く弾ける。
叫び、泣き声、墨の音、縄のうねり。
すべてが飲み込まれ、零は一瞬、意識を失った。
そして──
母の“最後の願い”が、零の前に姿を現すことになる。




