第二十五話 赤い鎖の少女 ― 前半 ―
夜の事務所に、湿った風が入り込んだ。
零は窓を少しだけ開けていたが、それが後悔に変わりそうなほど、その風は“重い匂い”を含んでいた。
クロが窓辺で毛を逆立てる。
「零……なんか来る」
「分かっている。この匂いは“契り”だ。
人と人の間の、不自然な縛り方の匂いだ」
その時──
扉が突然、強く叩かれた。
今までの依頼人たちとはまるで違う。
意識の外から殴りつけるような強さ。
零は扉に視線を向けるだけで、「入れ」とも「待て」とも言わなかった。
しかし扉は勝手に開いた。
強烈な“願い”が、扉を押し開けたのだ。
そこに立っていたのは、中学生くらいの少女。
肩につく髪は乱れ、瞳は乾いた涙の跡で赤く腫れている。
しかし何よりも異様だったのは──
少女の右手首に、真っ赤な“紐”が巻かれていた。
紐というより、締め付ける“縄”に近い。
皮膚に食い込み、まるで生きているかのように脈打っていた。
クロが低く唸る。
「零……あれ、ただの紐じゃないよ……!」
零は少女をじっと見つめた。
「座れ。その紐のことを話せ」
少女は震える足で椅子へ向かい、恐る恐る腰を下ろした。
その手首を覆う赤い紐が、“しゃり……”と音を立てて動いた。
少女は唇を噛みしめて言う。
「……お母さんが……十年前に、私につけた……“約束”です」
「約束?」
「“絶対に離れないでね”って。そう言って……手首に、赤い紐を結ばれたんです」
クロは眉をひそめる。
「それ……可愛いおまじないじゃないの?」
少女は首を振った。
「違います……。私が小学校に上がった頃、お母さんは“私が離れていく”のが怖いって……ずっと……ずっと締めて……力を入れるたび、紐が硬くなって……!」
零は少女の右手首を見つめた。
赤い紐は、明らかに異常だった。
人の手による“結び”ではない。
呪術で言うところの──
“縛法”だ。
「……お前の母親は、いつ亡くなった?」
少女は涙をこぼした。
「三ヶ月前です……。でも……死んだはずのお母さんの声が……毎晩、この紐から聞こえてくるんです」
クロは息を呑んだ。
「紐から……声が?」
少女は震えた手を胸に当て、こう言った。
「“まだ離れないでね”って。“ずっと一緒にいるんだからね”って。死んだはずなのに……ずっと……!」
零は深く目を閉じた。
これは“母親の怨念”ではない。
“執着”だ。
そして母が死んで三ヶ月経っているにも関わらず
紐がここまで強く生きているということは──
母は魂を娘に縛りつけ、未だ現世に残っている。
少女が涙を拭いながら続ける。
「最初は……母が近くにいるみたいで、嬉しかったんです……。でも……最近……“紐の中に引っ張られる夢”を見るんです……。私の手首から……中に落ちていって……夢の中で、母が笑いながら言うんです……」
少女の声が震え、まるで真冬の外気のように冷えた。
「“こっちにおいで、いっしょにいよう”って……!」
クロが震える声を漏らす。
「零……これもう、呪いだよ……」
零は立ち上がり、少女の前に膝をついた。
「名は?」
「……七瀬 梢です」
「梢。この紐は、放っておけばお前の魂を奪う。
母の魂も、お前と一緒に地獄へ堕ちる」
梢は目を見開いた。
「……母も……!?」
「ああ。“縛り法”は、互いを固く繋ぐ呪いだ。
切れば、お前は自由になる。だが、切った瞬間──母は完全に消滅する」
梢は息を詰まらせた。
「そ……そんな……」
クロは小さく囁く。
「零……どうするの?」
零は黙って梢の手首に触れた。
赤い紐は触れた瞬間、蛇のようにうねった。
“離さない。離さない。離さない。”
聞こえた声は、確かに“母の声”だった。
だが同時に、どこか人間ではない歪みを含んでいた。
零は目を細め、ゆっくりと梢に向けて言う。
「梢。母を救う方法は、一つだけある」
梢は涙を流しながら顔を上げた。
「あるんですか!?お母さんを……救う方法が……!」
「ある。ただし、非常に危険だ」
クロが息を呑む。
聞いたことのある響きだ。
「零……“共鳴法”使う気?」
「そうだ。梢と母の魂の“境界”に俺が入る。そのうえで紐を“解く”。切らずに、祈りをほどくんだ」
クロは青ざめた。
「零、それ……下手したら零まで連れてかれるよ……母子の執着の中に落ちるんだよ……!」
零は微かに笑った。
「母の愛は、呪いよりも強い。強すぎるがゆえに呪いへ変わる。だが“本当の願い”を見つければ、呪いは戻る」
梢は震える声で言った。
「……やってください……!お願いします……!
お母さんを……助けてください……!」
零は静かに頷いた。
「分かった。だが梢、お前も覚悟しろ。これは“お前自身の心”の問題でもある」
梢は強く唇を噛み、涙越しに零を見た。
「……怖いです。でも……このままじゃ……もっと怖い」
クロがそっと梢の肩に乗る。
「大丈夫。私と零が一緒にいるから」
零は結界の準備を始めた。
墨を床に広げ、梢の右手首から伸びる赤い紐を中心に円を描く。
そして低く呟く。
「式号──“心綴”。主の心、此処に顕現させる」
部屋の空気が揺れた。
梢の手首の赤い紐が、まるで生き物のように震え、きしむ。
“来て。いっしょにいよう。離れないで。ずっと、ずっと――”
その声は誰のものなのか。
どこまでが母で、どこからが呪いなのか。
零は筆を握り、梢の目をまっすぐに見て言った。
「梢。これより“母の魂”の中に入る。お前は俺の声を離すな。聞こえなくなったら──お前も母も戻れない」
梢は涙を流しながら頷いた。
手首の赤い紐が、じわりと黒へ変色し始める。
クロは震えながら零の肩にしがみつく。
「零……絶対戻って来てね……!」
零は深呼吸を一つし、“結界の中心”に膝を下ろした。
「行くぞ、梢。お前と母の“縛られた祈り”を……解く」
墨が光を帯び、赤い紐が“耳元”で囁いた。
“来て。こずえ。おかあさんと……ずっと一緒に、ね……”
零の意識が、深い深い闇へ引きずり込まれた。
母の魂の核心へ。
愛と呪いが絡み合う場所へ。
――そこで零は、梢の母の“本当の願い”と対峙することになる。




