第二十四話 八つ目の窓 ― 後半 ―
アパートを出て階段を降りると、夜風が冷たく頬を撫でた。
依頼人の部屋に満ちていた“空洞の匂い”は、跡形もなく消えている。
クロが零の肩に乗り、ふぅ、と長い息を吐いた。
「零……今回はほんと危なかったよ。あの影、すごく強くなりかけてた」
「依頼人が“自分を影だと思い始めていた”せいだな」
零の声は淡々としているが、その目は僅かにだけ疲れを滲ませていた。
クロはしばらく黙り、夜空を見上げてから言う。
「ねぇ、零……影ってさ。ほんとは誰にでもあるんだよね?」
「ある。誰もが抱えている“不安の穴”だ。それ自体は悪くない」
クロが首を傾げる。
「じゃあ、なんで“怪異”になるの?」
零は歩きながら答える。
「――向き合わず、放置した時だ。穴は見ないふりをされると、形を変える。誰かに見てもらおうとして、誰かに触れてほしくなって……最後は“自分そっくりの影”を作り始める」
「寂しがり屋なんだ……」
「人の“影”は、人よりずっと素直だ。不安になれば、不安の形を取る。孤独なら、孤独の形に」
クロは尻尾を揺らしながら小さく呟く。
「……ねぇ零。影って、零にもある?」
零は足を止めなかった。
ただ、空を見上げながら静かに言う。
「誰にでもある。俺にも、ある」
クロは息を飲んだ。
零は続ける。
「だが――俺の影は、お前が照らしている。だから怪異にはならない」
クロの目が丸くなり、ふにゃりと柔らかく笑った。
「……零のそういう言い方、ずるいよ」
「事実だろう」
クロは零の首元に額をすり寄せ、そのままぷるぷると震えた。
「……うん。ずっと照らすからね。零の影は、私が全部見てるから」
零はなにも返さなかった。
ただその沈黙は、拒絶ではない。
安心を含んだ沈黙だった。
事務所に戻ると、室内は暗いままだった。
零は明かりをつけず、ソファに腰を下ろす。
クロは零の膝の上に丸くなりながら言う。
「零、疲れた?」
「……少しな。影喰いは相性が悪い」
「零の“内側”を覗こうとするから?」
「ああ。あれは攻撃ではない。“心を測る”類だ。本物の心が揺れている者にほど強く触れてくる」
クロは零を見上げた。
「紗月ちゃんのこと……まだ痛む?」
零は視線をそらさず答えた。
「痛む。それは変わらない。だが――喰われるほどではない」
クロは静かに頷いた。
「うん。零が前より少し軽く見えるの、分かるよ。紗月ちゃんの祈りが届いたんだね」
零はしばらく目を閉じていた。
そして、ゆっくり言う。
「……祈りを受け取るには、自分を許さないとな」
クロは身体を寄せ、囁くように言った。
「零は、もう許せたの?」
零は一瞬だけ迷い、しかし正直に答えた。
「……まだ途中だ。だが、一歩は進めた」
クロの目が柔らかく揺れる。
「それでいいよ。零は一歩ずつでいいの」
零はクロの頭をそっと撫でた。
クロが小さく喉を鳴らす。
静かな夜だった。
七つの窓だけが並ぶ暗い部屋で、外からの風も音もなく、ただ二人の呼吸だけが、わずかに空気を揺らしていた。
影は消えた。
気配もない。
しかし――
零はふいに気づき、ソファの背に視線を上げた。
「クロ」
「なに?」
「……この事務所には、窓がいくつある?」
クロはくるりと辺りを見回し、いつもの小さな声で答えた。
「三つ、だけど?」
「そうだ」
零はそっと息を吐く。
「なら――問題ない」
「なにが?」
「“増えて”いない」
クロはキョトンとした表情になり、すぐに少し照れたように笑った。
「そりゃそうだよ!零の影は、もう帰ってきてるから!」
零は喉を小さく鳴らして笑う。
「そうだな」
事務所の夜は静かだ。
影は揺れず、窓も増えず、ただ澄んだ空気だけが残っている。
今夜は久しぶりに眠れるだろう。
そんな予感がした。
そして、零とクロの静かな夜はゆっくりと更けていった。




