第二十四話 八つ目の窓 ― 中半 ―
零とクロが依頼人の住むアパートに着いたのは、深夜一時を過ぎた頃だった。
街灯に照らされた古い三階建ての建物は、どこか影が濃く、他の建物と同じ形をしているはずなのに、“ひとつだけ別の空間”に存在しているような気配があった。
クロが小さく唸る。
「零……この建物、変だよ。影が揺れてる……人の形してるやつが、何体も」
「だろうな。依頼人が“覗かれた”回数が多いほど、影は増える」
零は歩調を緩めず階段を上る。
壁紙は剥がれ、足音がやけに反響する。
建物全体が“空洞”になったようだ。
三階の一番奥。
依頼人の部屋の前に立つと、ドアの下の隙間から冷たい風が漏れ出していた。
普通の部屋の空気ではない。
まるで、外気がそのまま部屋の中に侵入しているような――境界が曖昧になっていた。
クロが小声でささやく。
「零……もう窓の数、増えてる。四つ……五つ……六つ……」
「扉の向こう側で“繁殖”しているな。急ぐぞ」
零がドアノブを掴んだ瞬間、内部から“コン……”と、窓を指先で叩くような音がした。
クロが跳ねる。
「零! 誰かが中から合図してる!」
零はノブをひねり、静かに扉を押し開けた。
暗闇。
部屋の中にあったはずの家具はすべて隅へ寄せられ、中心には“窓”が七つ並んでいた。
壁にあるべき場所に窓があるのではない。
窓だけが不自然に浮き出している。
壁紙の上に、絵のように貼り付いた“外への穴”。
七つ。
そして――
その奥に、もう一つ。
「……八つ、あるな」
八つ目だけは異様だった。
四角形ではなく、わずかに“歪んでいる”。
形容しがたい、見てはいけないものの形。
依頼人は部屋の隅に丸くなり、震えながらこちらを睨むように見ていた。
「来た……来てくれた……!や、やつは……まだ、向こうに……!」
零は彼を確認し、足音を立てずに八つ目の窓に近づいた。
クロが背中を逆立てながら言う。
「零……これ、普通の窓じゃない……窓の“形”した穴だよ。向こう側に、“誰か居る”」
零は短く頷く。
「八つ目の窓は、“世界の外”と依頼人の心が繋がった穴だ。穴そのものが怪異の核――ここを制御すれば、全て止まる」
依頼人が震える声をあげる。
「あいつ……毎晩、あの窓から……覗いてた……!覗き返したら……笑ったんだ……!声もなく……ただ、影の口が……!」
クロが叫んだ。
「零! 八つ目の窓……動いてる!!」
見ると、“窓”がわずかに呼吸するように膨らんでいた。
まるで部屋全体が肺になったかのように。
――カタ……カタカタ……
窓のガラスの内側で、小さく爪を立てる音。
誰かがそこにいる。
誰かが覗こうとしている。
零は筆を抜き、墨を床に落とした。
「来るぞ」
窓の中の闇が、ゆっくりと揺れ、
形を作り始める。
最初は、影。
次に、輪郭。
最後に――“顔のない男”。
依頼人の姿を模している。
だが、目も、鼻も、口も、すべてがぐにゃりと溶けた黒い穴。
クロが震えた声を絞り出す。
「零……これ、“影喰い(かげくい)”だ……本物の依頼人の“影”を奪って、自分が本物になろうとしてる!」
依頼人が悲鳴を上げる。
「これ以上は……やだ……助けてくれ……!もう俺じゃなくてもいい……あいつが俺になっても……!」
零は静かに言った。
「それは違う」
依頼人は涙まじりに叫ぶ。
「違わない……!どうせ俺は誰にも必要とされてない!なら……!」
「影に身を明け渡すな」
零は一歩、窓に近づく。
「影は“無価値だと思っている人間の穴”から生まれる。お前の不安も孤独も――全部、あいつの餌だ」
依頼人は崩れ落ちる。
八つ目の窓の“男”が、ゆらりと顔をこちらに向けた。
顔の穴が、笑ったように歪む。
クロが背中を膨らませる。
「零! 来るよ!」
影の男は窓を超え、ゆっくりと“こちら側”の床に足を踏みしめた。
世界の外側の存在が、完全に入ってこようとしていた。
零は筆を構え、低く呟く。
「――式号、“影縫”。境界線、此処にて固定する」
墨が床を走り、八つ目の窓を中心に黒い結界が広がった。
しかし――
影の男は結界を見てにたり、と笑った。
「……零。結界、破られるよ……!」
クロが叫ぶ。
影の男は、“依頼人の感情”をそのまま喰って強くなっている。
零は舌打ちし、もう一度筆を握り直す。
「まだだ。影は“自分の価値を疑う者”に宿る。依頼人。立て」
床に倒れ込んだ依頼人は、零の言葉に顔を上げる。
「立つんだ。お前が『自分はここにいる』と確かめるまで、影は強くなる」
依頼人は震えながらも、壁に手をついて立ち上がった。
影の男が、それを見て
――ピクリ。
と動きを止める。
零はすぐに叫んだ。
「クロ、今だ!」
クロが飛び、八つ目の窓の縁に爪を突き立てた。
「零! やって!!」
零は筆を大きく振り下ろす。
「式号――“影返”!!影は元の主に、主は己の内へ還れ!!」
墨が八つ目の窓を包み込み、影の男の体が揺らいだ。
顔の穴が苦しむように歪み、やがて黒い粒子となって崩れ始める。
依頼人の影がゆっくりと戻り、影の男は窓へと吸い込まれるように消えていく。
――カタカタ……
最後にガラスが一度だけ鳴り、八つ目の窓は壁の模様へと溶けるように消えた。
静寂。
部屋には、七つの窓だけが残された。
すべてただの窓。
怪異の気配はもうない。
クロがほっと息をつき、零の足元にすり寄った。
「ふぅ……零、今回は危なかったね」
「依頼人が“影になりたがる”とはな。あれは厄介な部類だ」
依頼人はようやく呼吸を整え、涙を流しながら呟いた。
「……俺……俺、生きてていいんだろうか……」
零は淡々と言う。
「生きていなければ“影”は戻れない。影が帰ったということは、まだ前に進めるということだ」
クロは優しく付け加えた。
「ねぇ。窓が増えるほど、あなたの心は助けを求めてたんだよ。だから零のところに来れたんだと思う」
依頼人は嗚咽しながら、深く頭を下げた。
零は部屋を出る前、最後に振り返って言った。
「もう覗くな。窓が何枚あっても――“外”には何もいない」
クロが小さく笑う。
「……いるのは“内側”のほうだよ」
零は頷き、部屋を出た。
夜の空気は冷たく、どこか“空洞”の気配が完全に消えていた。
影は戻った。
依頼人も戻った。
八つ目の窓は――
二度と、現れなかった。




