第二十四話 八つ目の窓 ― 前半 ―
夜の事務所は静まり返っていた。
いつもならクロの小さな足音や、零が淹れる苦い珈琲の香りが部屋を満たすが、今夜は薄い膜のような寒気だけが漂っている。
零は古い机の上に積まれた資料を閉じ、小さく息を吐いた。
「……依頼の間が空くのは珍しいな」
「零が紗月ちゃんの件で疲れてるから、怪異の方も気ぃ使ってるんじゃない?」
クロが机の上に飛び乗り、尻尾をふる。
「怪異が気を使うなら、俺は呪術師なんて楽な仕事だがな」
そんな冗談を交わしたその時。
“コンコン”と、控えめなノックが響いた。
零は眉をひそめる。
この事務所の扉は、強い“願い”がないと見つけられない。
迷い、嘘、興味本位では辿り着けない。
「依頼人……だね」
クロが耳をぴんと立てる。
「入れ」
扉が軋むように開いた。
立っていたのは、三十代ほどの男性だった。
やつれた頬に深い隈、こわばった肩。
まるで何日も眠れぬまま、恐怖に追われ続けてきたような顔だった。
「黒乃零さん……ですよね……?」
「そうだ。座れ」
男性は震える手で椅子に腰を下ろす。
クロがじっと彼を見つめ、「うーん」と鼻を鳴らした。
その反応に零は気づく。
――既に“触れている”匂いだ。
「依頼内容を」
男性は喉を鳴らし、唇を震わせた。
「……俺、住んでる部屋に……“八つ目の窓”があるんです」
クロが目を丸くした。
「零、アパートにそんな窓ある?」
「普通は七つ……いや、部屋によってはもっと少ない」
零は静かに顎を引き、続きを促す。
「最初は……気のせいだと思ったんです。でも、寝る前に確認しても、朝起きると、知らない“窓”が……ひとつ、増えてるんです」
「どんな窓だ?」
「外が見えないんです。真っ暗で……でも、気配がある。誰かが、向こうから覗いてる気がする」
男性の手は冷たく汗に濡れていた。
その震えは芝居ではない。
既に何度か“接触”している。
「増えるタイミングは?」
「俺が……不安になった時、です。仕事がうまくいかなかった日、元妻のことを思い出して眠れなかった日……気づくと増えてて……覗いてくる」
「覗き返したか?」
「……一度だけ」
その瞬間、部屋の温度がスッと下がった。
クロが毛を逆立てる。
「……何が見えた?」
男性は唇を噛み、震える声で搾り出した。
「……俺、でした。でも……笑ってなかった。目も、口も……全部、影みたいで……そいつが……“俺を見た”んです」
クロがぞわっと身体を縮めた。
「零……向こう側の“自分”……影食いの気配」
「まだ早い」
零が低く言う。
男性は涙を滲ませ、震える声で訴えた。
「お願いです……助けてください……!あれは、俺の影なんかじゃない……“俺の代わりになろうとしてる何か”だ……!」
零は静かに立ち上がった。
「住所を」
依頼人はメモを差し出す。
零は受け取り、すぐに立ち上がった。
「クロ。行くぞ」
「うん。嫌な匂いしかしない」
零が扉に手を掛けた時、依頼人が怯えた目で問いかけた。
「あいつ……今も、俺の部屋にいるでしょうか?」
零は振り返り、淡々と答えた。
「……いる。しかも“増え始めている”。早く行かないと、お前が喰われる」
依頼人は顔面を青くし、椅子に崩れ落ちた。
零は言い残す。
「安心するな。不安になれ。その感情が――あれを呼ぶ」
ドアが閉まり、事務所にかすかな残響だけが残った。
夜の街を歩く途中、クロが不安そうに零を見上げた。
「零……“八つ目の窓”って……あれ、本当は何?」
零は淡々と言う。
「“心の隙間”だ。孤独、不安、後悔……強い負の感情が生んだ穴だ」
「穴が窓になるの?」
「“外側”と繋がりやすい形が窓なんだ」
クロは震えた。
「じゃあ……あれを覗いたら?」
「世界の外の何かと目が合う。そして“自分の影”をすり替えられる」
「すり替え……?」
「影の方が本物になり、本物の方が……影になる」
クロはふるっと身を震わせた。
「零、早く行こう!依頼人、すり替えられちゃうよ!」
零は夜気に揺れる街灯を見上げながら、
静かに言った。
「急ぐぞ。“八つ目の窓”が増える前に――向こう側が『こちらへ来る前に』」
クロは小さな唸り声を漏らした。
夜風が吹き抜ける。
その風は、どこか“空洞の匂い”を含んでいた。
まるで、誰かが――
すでに零たちを覗いているかのように。




