第二十三話 遺響 ― 後半 ―
紗月の姿が光の粒となって消えた後、スタジオはまるで誰かが深く息を吐いたように、静かな余韻を残して沈んでいた。
零は、しばらくその場から動けなかった。
空気は穏やかになったというのに、心は波立つままだ。
否――ようやく揺れ始めたのだ。
十年もの間、固く凍っていた心が。
「……紗月……」
呼んだ名は宙に溶けた。
返事はない。
当たり前だ。
紗月はもう、この世界のどこにもいない。
けれど、不思議なほど孤独ではなかった。
胸の中には、彼女が残した“音の温度”が、まだ消えずに残っていたからだ。
クロがそっと零の足元に寄り添った。
「零……ねぇ、大丈夫?」
いつもの軽い声ではなく、零の呼吸を確かめるような、慎重で優しい声音だった。
零はゆっくり息を吐き、かすれた声を返す。
「……大丈夫だ。いや……違うな」
「違う?」
「ようやく……胸の重みが動き出した。紗月の言葉を、ちゃんと聞けたせいだろう」
クロは零の膝に前足をかけ、まっすぐ見つめる。
「零は、十年も……ずっと自分を責めてたんだね」
零は目を伏せた。
責めていたのか。
あるいは、向き合うのが怖かっただけなのか。
その境界は、もはや自分にも分からなかった。
「助けられなかった。あの日、声に気づけなかった。紗月が本当に欲していた言葉を……俺は渡せなかった」
クロは小さく首を振る。
「でも、紗月ちゃんは怒ってなかったよ。むしろ零に伝えたくて、ずっと……ずうっと残ってたんだよ」
「……ああ」
零の喉がきゅっと詰まる。
紗月の最後の言葉は――“ありがとう”だった。
――ありがとう。
――あなたのおかげで、生きられた。
その一言のために、紗月は十年の祈りを残した。
それは呪いではない。
ただの“想いの残響”だ。
零は割れたレコードの欠片を拾い上げる。
裏側の銀文字が、薄い光を返した。
《To Rei Kuro》
――零とクロへ。
「……届けてくれたんだな」
零の声は、震えてはいなかった。
ただ、寂しげで、どこか温かかった。
クロは尻尾を揺らし、誇らしげに言った。
「零が受け取らないといけない祈りだったんだよ」
「そうだな」
零は欠片を懐にそっと仕舞った。
スタジオから出ようとしたとき、背後でピアノの鍵盤がひとりでに震えた。
――ぽん。
静寂を破る一音。
それは、紗月が最後に零へ贈った“お別れの音”のようだった。
しかし、それは悲しいだけの音ではなかった。
どこか希望を含んだ、柔らかな響きだった。
クロが振り返りながら言う。
「紗月ちゃん……最後まで、ちゃんと弾いてたんだね」
「そうだな」
零はピアノに近づき、鍵盤に手を置いた。
ほのかに温かい。
「生きた証だ。祈りの証拠でもある」
鍵盤が震え、短い旋律が流れた。
――ぽろん、ぽろん。
それは、紗月が残した最後の“挨拶”のようで、零の胸の奥に静かに染み込んだ。
零はぽつりと呟く。
「……ありがとう」
その一言を返せるだけで、十年の重みが形を変えていく。
悲しみは残る。
後悔もある。
だが、もはや零を縛る鎖ではない。
クロが零の肩まで跳び乗った。
「零、行こう。紗月ちゃんはもう大丈夫だよ」
「ああ。……これで、ようやく前へ進める」
廃ビルを出ると、雨は完全に止んでいた。
どこかで街灯が濡れた路面に反射し、遠くで車が通る音が柔らかく響いていた。
夜気は冷たいが、どこか新鮮だった。
クロが歩きながらぽつりと言う。
「ねぇ零……紗月ちゃん、本当に零のこと好きだったんじゃない?」
零は少しだけうつむき、それでも柔らかい笑みを浮かべた。
「……どうだろうな。だが、紗月が俺に残した“最後の音”は……確かに温かかった」
「じゃあ、きっとそうだよ!」
クロが明るく言うと、
零は少し深く息を吸った。
「紗月の音は……俺が持っていく。彼女の祈りも、言葉も。全部、俺が覚えておく」
クロはふにゃっと笑い、尻尾を揺らす。
「零……なんか優しい顔になってるよ」
「そうか」
「うん!さっきまでは“十年の冬”みたいだったけど……今は、春の匂いがする!」
零はふっと吹き出した。
「お前は比喩が妙に詩的だな」
「んふふん!」
月が雲の隙間から零たちを照らす。
夜風がそっと頬を撫で、懐のレコードが微かに鳴いた気がした。
――ぽん。
零は立ち止まり、夜空に向かって呟いた。
「紗月。……今度は俺が、お前の音を残す番だ」
風が静かに揺れた。
それは、紗月からの最後の“返事”のように感じられた。
零とクロは並んで歩き出す。
どこか遠い場所で、また新たな依頼の気配が夜の底に漂い始めていた。
祈りも呪いも、まだ続いていく。
それでも二人は進む。
十年前の音とともに。




