第二十三話 遺響 ― 中半 ―
――音は沈黙しない。
想いは必ず“誰か”へ向けて叫び続ける。
たとえそれが、祈りと呪いの境界だとしても。
夜の廃ビルは、息を潜めた生き物のように重たく沈黙していた。
零とクロは階段を降りながら、壁に刻まれた古い落書きや、剥がれた防音材の跡を眺めた。
零の胸には、十年前の痛みがじわりと蘇ってくる。
あの日見た少女の横顔。
白い指。
小さな笑み。
そして――最後に聞こえた、あの雨音。
扉の前で立ち止まった零は、震える呼吸を整えて鍵を挿した。
重い金属の音と共に扉が開く。
中は、時間が止まったままだった。
散らばった楽譜。
倒れかけたマイクスタンド。
壊れたメトロノーム。
十年前、紗月が使ったままの古びたアップライトピアノが、部屋の中心で静かに佇んでいる。
クロが小さく囁いた。
「……ここ、紗月ちゃんの匂いが残ってる。泣いてるみたいな匂い……でも優しい」
零はピアノの前に立ち、そっと鍵盤を押した。
――ぽん。
その音は驚くほど澄んでいた。
今も、誰かが弾いているかのように。
次の瞬間、空気がざわりと震えた。
照明が明滅し、壁のスピーカーからノイズが漏れ始める。
――チリ……チリ……。
十年前の音が蘇る。
ピアノの音と混ざるように、柔らかな囁きが重なる。
「……ねぇ、零」
空間に白い粒子が舞い上がり、少女の輪郭がゆらりと現れた。
早瀬紗月。
十年前のままの姿。
白いワンピース、少し照れたような笑み、そして、音そのもののように柔らかな瞳。
「ちゃんと……最後まで聴いてくれる?」
零は息を呑んだ。
言葉が喉で詰まる。
十年越しの再会が、あまりにも静かで、痛い。
クロが零の背に寄り添い、小声で言う。
「零……彼女、怒ってないよ。祈ってる匂いがする……」
紗月は一歩、零の前に進む。
足は床に触れていない。
その姿は、光そのもののように揺れていた。
「わたしね、ずっと言えなかったの。本当は……あなたに伝えたかったことがあるの」
その瞬間、空気がビリ、と裂けた。
紗月の背後で影が揺れ、音が歪み始める。
スピーカーから、ひどく低いノイズがあふれた。
クロが叫ぶ。
「零! 祈りが強すぎて……“音”が怪異化してる!!」
紗月の想いが強すぎれば、その残響が形を持ち、呪いになる。
紗月自身、その境界に立っていた。
「零……助けて」
紗月は零の手を取った。
温かい。
十年前と同じ。
「わたし、未完のままなんだ。思い残しの音が、ずっと止まらないの」
黒い影が床から湧き上がり、やがて巨大な“波形”のような姿で襲いかかってくる。
怒りでも悲しみでもない。
ただ、紗月が残した“音の形”。
零は筆を握りしめた。
「紗月。おまえの祈りは、呪いなんかじゃない」
紗月は涙を浮かべたように見えた。
いや、これは涙ではない。
光だ。
音の粒だ。
「零……本当はね、ずっと……言いたかったの」
影が迫る。
クロが飛び出し、零の肩にしがみつく。
「零!! 早く!!」
しかし、紗月の声が何よりも先に零を貫いた。
「わたし……あなたに――“ありがとう”って伝えたかったの」
零の胸が激しく脈打った。
「ありがとう……あなたがいたから、わたし、最後まで……音を好きでいられたの」
その瞬間、零の筆が光を帯びる。
墨が震え、空気が熱を帯びた。
「――式号、“音祈”」
黒い影が一瞬怯む。
「祈りの残響――ここにて、終いとする!」
零が筆を振ると、墨と光が混ざり合い、紗月の祈りの残響が優しい音色になって広がった。
黒い影は、その音に触れた瞬間、まるで安心したように形を失い、霧となって消えていく。
紗月の周りの光も、ゆっくりと薄れていった。
「零。やっと……言えた。ありがとう」
零は震える声で答えた。
「……紗月。俺の方こそ……すまなかった。助けられなかった。おまえを……」
紗月は小さく首を振る。
「違うよ。あなたがいたから、わたし、生きられたんだよ」
最後の光が、零の頬を優しく撫でた。
「だからね――わたしの音はもう大丈夫。零の中で、ちゃんと響いてるから」
光は完全に薄れ、少女の姿は消えた。
静寂。
その中で、アップライトピアノの鍵盤がひとりでに揺れた。
――ぽん。
ひとつの音が、紗月の“最後の祈り”のように響いた。
零は膝をつき、ただその音を聴いていた。
十年越しの祈りは、ようやく終わりを迎えたのだった。




