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黒猫呪術代行事務所  作者: 無咲 油圧


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第二十三話 遺響 ― 前半 ―

――声は消える。けれど音は、残る。想いを乗せた波は、誰かの心を今も震わせ続ける。


夜の街は、雨に沈んでいた。

アスファルトの上を滑る雨粒が、遠くのネオンを滲ませる。

舗道を打つ音が、まるで針がレコードの溝をなぞるようで、零は思わず立ち止まった。


――あの時も、こんな音がしていた。

頭の奥で、遠い記憶がよみがえる。

白い雨。

傘の下、彼女の笑い声。

だが、次の瞬間、世界は音を失っていた。


「……思い出す必要はない。」

自分に言い聞かせるように呟き、零は事務所の鍵を開けた。


黒猫呪術代行事務所。都心のビルの最上階、夜でも灯りが落ちないその部屋には、湿気を帯びた古い紙と墨の匂いが満ちていた。


雨の滴を落としながら中へ入ると、

クロが机の上から顔を上げた。

「おかえり、零。……また濡れてるよ。」


零は濡れた髪を軽く払って、

手に抱えた包みを机の上に置いた。


「依頼品だ。」


クロが首を傾げる。

「依頼? ってことは……誰か、呪いたいの?」


零は首を振る。

「今回は、呪いではない。“残響”だ。」


クロは首をかしげたまま包みを覗き込み――そして、息を呑んだ。


「……レコード?」


古びた包み紙を解くと、現れたのは黒い円盤。

ところどころ傷がつき、縁が欠けている。

それでも中央のラベルには、銀色の文字でこう刻まれていた。


《Requiem for the Unspoken》

――“語られぬ者への鎮魂歌”。


クロの耳がピクリと動く。

「なんか……これ、嫌な感じがする。」


零は淡々と答える。

「依頼人の話では、“聴いた者が死ぬ”。」


「……またそういうやつ……。」

クロは溜息をついて、爪で軽く盤面をなぞった。

「冷たい……音が、まだ残ってる。」


「“音”は残留思念のひとつだ。強い想いが音に焼き付くことがある。」


零は蓄音機を取り出し、盤を慎重に置いた。

クロが慌てて制止する。

「ちょ、ちょっと! 聴くの!?」


「聴かなければ、呪いの正体は分からない。」


「でも死ぬかもしれないって!」


零はわずかに笑みを浮かべた。

「死んだとしても、それもまた“響き”だ。」


クロの毛が一瞬逆立つ。

その笑みが、ほんのわずかに“生者離れ”していたからだ。


蓄音機の針が、盤に触れる。

――チリ……チリ……。

ノイズが流れ、やがて旋律が立ち上がる。


古びたピアノの音。

穏やかで、どこか懐かしい。

それは、“誰かを想うような音”だった。


クロが目を細める。

「綺麗な曲……だけど、なんか変。」


零も黙って耳を傾ける。

旋律の隙間に、確かに“人の声”が混じっていた。

最初は囁き。

次第に、それは言葉として形を取る。


『……ごめんね。』

『まだ、言えてないの。』

『どうして、あの日、止めてくれなかったの……。』


クロが尻尾を膨らませた。

「零っ! これ、呪いだよ!」


零は目を閉じたまま呟く。

「呪いと祈りは表裏だ。これは“声になれなかった祈り”だ。」


「祈り……?」


「人は死んでも“想い”を残す。それが形を失えば、こうして音になる。」


クロが息を呑む。

「じゃあ、このレコードの中には――」


「死者たちの祈りが、閉じ込められている。」


零の声は低く、静かだった。

だが、その指先が震えていることに、クロは気づいていた。


そのとき。


蓄音機の音が、ふいに止まった。

空気が一瞬で冷える。

そして、音の底から“別の旋律”が立ち上がった。


――チリ……ザザ……ヒィィ……。


クロの耳がピンと立つ。

「なに、これ……音が……鳴いてる……!」


零の背筋にぞわりと寒気が走る。

音が空気を震わせ、壁に黒い影を生んでいく。

影は形を変えながら、女の輪郭を作り出した。


長い髪、細い指。

その指が、ゆっくりとこちらに向かって伸びる。


「……あなたに、伝えたかったの。」


声は泣きながら笑っていた。

クロが飛び退き、叫ぶ。

「零っ!!」


だが、零は動かない。

瞳を閉じ、囁いた。


「式号、“音返おとがえ”。音の残響、我が筆に帰せ。」


墨が空気を裂くように走る。

しかし――黒い手が、零の喉を掴んだ。


「どうして、助けてくれなかったの。」


零の呼吸が止まり、視界が白く染まる。

その声は、十年前の雨の日と同じだった。


――“彼女”の声だ。


あのとき、自分が救えなかった依頼人。

まだ若かった少女。

最後に見たのは、彼女の白い手。


『もう一度、話したかったな。』


彼女が残したその言葉を、零は一度も忘れたことがなかった。


クロが必死に叫ぶ。

「零!! しっかりして!」


その声で、零は現実に戻る。

喉を掴む手を無理やり振り払うと、筆を構えた。


「式号、“残音封ざんおんふう”――沈黙せよ!」


黒い墨が光を放ち、空間が爆ぜた。

音の波が逆流し、女の影が消えていく。

蓄音機の針が跳ね、盤が割れた。


――静寂。


ただ、雨の音だけが遠くで響いていた。


零は膝をつき、喉を押さえた。

その手のひらに、黒い痕が残っている。

クロが駆け寄り、心配そうに覗き込む。

「ねぇ……今の、誰?」


零は答えず、割れたレコードを拾い上げた。

盤の裏に、小さく文字が刻まれている。


《To Rei Kuro》

――“零とクロへ”。


クロが驚いたように瞬いた。

「……これ、最初から俺たち宛てだったの?」


零は短く息を吐き、

「いや、違う。“誰か”が、俺たちに聴かせたかった。」


外の雨が止む。

街の灯が静かに揺れる。

空気の中に、まだ微かな旋律が残っていた。


――チリ……チリ……。

――「また、聴いてね……」


クロが小さく呟く。

「零……この音、まだ終わってないよ。」


零はゆっくりと立ち上がり、窓の外、濡れた街を見下ろした。

「……ああ。“語られなかった祈り”が、まだどこかで鳴っている。」


その夜、零は一睡もできなかった。

目を閉じるたびに、あの声が蘇る。


『――どうして、助けてくれなかったの?』


『ねぇ、零。』


『あなたは、誰のために祈ってるの?』


胸の奥が疼く。

零は小さく呟いた。

「……俺は、まだ“あの時”に囚われているのか。」


カーテンの隙間から月光が差し込み、机の上の割れたレコードが、わずかに輝いた。


その光は、まるで“誰かの涙”のように静かだった。

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