第二十二話 手向け花 ― 後半 ―
夜が明けていた。
長い夜のあとの空は、どこまでも澄んでいる。
花々が咲き乱れていた公園には、今や静けさしか残っていなかった。
地面に散った花弁は光を失い、淡い灰色へと変わっていく。
まるで、祈りがようやく安らぎを得て眠りについたかのようだった。
クロが柔らかく尻尾を振り、零の足もとを見上げた。
「……終わった?」
零は頷き、まだ湿った土に指を這わせた。
「祈りは静まった。けれど――完全には消えていない。」
クロが首を傾げる。
「残ってる?」
「想いというのは、形を失っても消えない。たとえ祈りが呪いに変わったとしても、その根は“愛”だ。」
風が吹き、花壇の中央に一輪だけ白いカーネーションが揺れた。
それは、昨夜の嵐の中でも決して散らなかった唯一の花。
零はそっとその花を見つめた。
「……神谷綾。最後まで、母だったな。」
クロは静かに瞬きをした。
「零、あなたの声って……いつも悲しいけど、優しいね。」
零は苦笑した。
「悲しい声しか覚えていないだけだ。」
陽が完全に昇るころ、莉音が公園にやって来た。
制服の袖を握りしめ、息を荒げながら辺りを見渡す。
「……お母さん?」
誰もいない。
花も枯れている。
けれど――ブランコのそばに、一輪だけ咲く白いカーネーションがあった。
莉音は歩み寄り、そっとその花に触れた。
指先に温もりが伝わる。
花弁が揺れ、風が頬を撫でた。
「……ああ、やっぱり。お母さん、ここにいるんだね。」
涙がこぼれる。
それは悲しみの涙ではなく、
何かを受け入れたあとの、穏やかな涙だった。
莉音は両手で花を包み込み、
「行こう、カズトのところへ。二人が眠るあの場所に、一緒に咲かせてあげる。」
と呟いた。
朝日が差し込み、白い花弁が光を返す。
その瞬間、ほんの一瞬だけ、莉音の耳に、優しい声が届いた。
「――ありがとう。もう、大丈夫よ。」
振り返っても誰もいない。
けれど、確かに“母の声”がそこにあった。
数日後。
黒猫呪術代行事務所。
午前の光が差し込む机の上には、小さな花瓶。
その中に、一輪の白いカーネーションが咲いていた。
クロが花瓶の横であくびをし、
「これ、莉音ちゃんからの贈り物だっけ?」
と零に尋ねる。
零は筆を置き、手紙を指で弾いた。
封筒の裏には、丸みのある文字でこう書かれている。
『お母さんはもういません。でも、あの日見た花が、ちゃんと心に咲いています。ありがとうございました。』
零は小さく笑い、
「……祈りが、正しく終わった証だ。」
と呟いた。
クロが花を見上げ、ふと首を傾げる。
「零、“祈り”って、終わるものなの?」
零は少しの間考え、それから答えた。
「終わるというより、変わるんだ。死を想っていた祈りは、やがて“生を願う”ものになる。」
クロは目を細める。
「じゃあ、この花も、まだ祈ってるんだね。」
「そうだ。誰かの幸福を、静かに見守るように。」
その日の夕暮れ。
零は事務所の窓を開け、
夜風に花の香りを乗せた。
遠くの公園から、子供たちの笑い声が聞こえる。
あの公園に再び花が咲いた。
だが、それはもう呪いではない。
人々が互いの幸福を願い、手を合わせるための場所に変わっていた。
クロが窓際で尻尾をゆらす。
「ねぇ、零。“祈り”と“呪い”って、どう違うの?」
零は少しだけ考え、それから静かに答えた。
「……祈りは誰かを救おうとする心。呪いは、自分が救われたいと願う心。どちらも似ているが、ほんの少しだけ向いている先が違う。」
クロは小さく喉を鳴らした。
「じゃあ、神谷さんは“祈り”だったんだね。」
「そうだ。最期まで、娘を愛し続けた母の祈りだった。」
窓の外、空に浮かぶ雲がゆっくりと流れる。
街の灯りが点り、夜の帳が降りてくる。
零は湯呑みに口をつけ、静かに手帳を開いた。
筆で新しい頁に書き込む。
【第百三十七依頼】
神谷 綾 成仏
呪いの形:手向け花
結果:祈りに還る。
備考:残された者、安寧に至る。
墨が乾く音だけが、部屋に響く。
零は筆を置き、湯を飲み干した。
そして、ふと微笑む。
「――祈りとは、残された者がまだ生きている証だ。」
クロがその言葉を聞いて、「うん。」と短く返した。
それだけで、静かな時間が流れた。
風が花瓶を揺らす。
白いカーネーションの花弁が一枚、零の膝に落ちた。
零はそれを拾い上げ、掌で包み込む。
「……いつか、この手にも、咲く日が来るだろうか。」
クロが小さく微笑むように鳴いた。
「咲くよ。あなたの祈りが、誰かの未来を照らすなら。」
零は小さく頷き、窓の外の夜空を見上げた。
星がひとつ、瞬いていた。




