第二十二話 手向け花 ― 中半 ―
――花が咲いた。
それは、恐ろしいほど美しい光景だった。
白、赤、紫、金。
夜の公園を覆い尽くすように、ありとあらゆる花が咲き乱れる。
本来なら同じ季節に咲かぬ花々が、互いの命を喰い合うように伸びていく。
クロが耳を伏せて低く唸った。
「零、やばい……! 祈りが暴走してる!」
零は静かに頷き、筆を構えた。
「――“祈り”が“執念”に変わった。これは呪いだ。」
空気が歪み、夜気が花の香りで満ちる。
甘く、濃密で、息をするのも苦しいほど。
莉音が胸を押さえ、膝をついた。
「うっ……くるしい……これ……なに……?」
「祈りが肉体に侵食している。下がれ。」
零が莉音の前に立ち、筆先で空を裂く。
その動きに合わせて、墨色の風が走った。
「――式号、“散華”。祈りの根、断て。」
墨が地を走り、花々を切り裂く。
風のように、火のように、花が崩れ、そして再び、同じ場所から新しい蕾が咲いた。
クロが歯を食いしばる。
「ダメだ……切っても切っても再生してる!」
零は視線を上げた。
空の色が変わっている。
花の香りが夜空まで昇り、月の光を赤く染めていた。
その中央に、神谷綾が立っていた。
彼女の周囲だけ、まるで時間が止まったように静まり返っている。
花弁が風に舞い、彼女の身体に吸い込まれていく。
「あの子に、見せたかったの。花を、たくさん咲かせて……笑ってほしかったの。」
零の筆が止まる。
彼女の声は、泣きながらも柔らかかった。
祈りと愛情が混ざり合い、境界を失っていた。
「……綾。」
「先生……どうして止めるの?祈ることは、悪いことなの?」
「悪くはない。だが――行き過ぎた祈りは、命を奪う。」
「命なんて、もういらないの。だって、あの子がいない世界に、意味なんてないもの。」
花が爆ぜた。
夜空を覆う花弁の嵐。
そのひとひらひとひらに、無数の“顔”が浮かぶ。
老人、子供、女――
皆、誰かを想いながら死んでいった者たち。
その魂たちが、神谷綾の祈りに引き寄せられていた。
クロが恐る恐る声を上げる。
「……これ、全部“手向け花”の成れの果て……?」
零は目を細めた。
「そうだ。死者を想い、止まれなかった祈りの残滓。彼女が“母”であるがゆえに、それらを受け入れてしまった。」
綾が歩み出る。
花の海を渡り、零の前に立つ。
その足元から、根が生え、地面を這っている。
「先生、あなたは……誰も想わないの?」
零は答えなかった。
だが、クロが代わりに口を開く。
「この人はね、想ったよ。でも、その“想い”でたくさんの人が死んだんだ。」
綾の瞳が揺れる。
「……だから、祈りを怖がってるの?」
「違う。」零の声は低く響いた。
「祈りは、正しく終わらせるものだ。止まらぬ祈りは、やがて世界を壊す。」
「でも……わたしは母親よ。あの子を愛して、何がいけないの?」
零は静かに目を閉じた。
「愛は、手放しても消えない。だが、手放せぬ愛は――呪いになる。」
風が吹く。
花の海がうねり、空を覆う。
夜が、まるで呼吸しているかのようだった。
「なら、見せてあげるわ。」
綾が両手を広げた。
背中から、幾千もの花弁が溢れ出す。
それらが風に乗り、ひとつの“花の塔”を作り上げていく。
その中から、小さな影が歩み出る。
白い服を着た、五歳ほどの男の子。
笑っている。
けれど、その目には光がなかった。
「……ママ……おはな、きれいだね。」
クロが息を呑んだ。
「弟くん……!」
莉音が立ち上がる。
「カズト……!」
綾は微笑んだ。
「ほら、帰ってきたの。お花が、あの子を連れてきてくれたの。」
零が一歩踏み出す。
「それは、魂ではない。“形”だ。あなたの祈りが生み出した、虚ろな人形に過ぎない。」
「でも……それでもいいの。もう一度、抱きしめられるなら……!」
花弁が旋回し、零を押しのけた。
地面が裂け、血のような液体が噴き出す。
公園が異界に変わる。
クロが叫ぶ。
「零っ、ここ、もう現実じゃない!」
「分かっている。」
筆が走る。
「式号、“封祈”。結界、現世と冥を分けよ。」
墨が光り、花の海が裂ける。
零と綾の間に線が引かれ、世界が二つに割れる。
綾はその線を見て、微笑んだ。
「先生、あなたにはわからない。“母”の祈りを止めるなんて、できないわ。」
零の目が静かに燃えた。
「――できる。俺も“母”に祈られたからな。」
その言葉に、花の海が一瞬止まった。
風が静まり、綾の表情が僅かに緩む。
「……あなたも、誰かの子だったのね。」
零は筆を高く掲げる。
「――式号、“花鎮”。祈りを還せ。」
風が一瞬にして逆流した。
花々が吹き飛び、塔が崩れる。
少年の姿が光の中で解けていく。
「ママ……また、来年ね……。」
その声が残り、全てが静かになった。
花弁が一枚、莉音の手のひらに落ちる。
白く、柔らかく、温かい。
彼女はその花弁を胸に抱き、涙をこぼした。
「……ありがとう、先生。」
零は何も言わず、ただ空を見上げた。
花の香りが薄れていく。
祈りが、静かに眠りについた。




