第二十一話 零の葬列 ― 後半 ―
朝焼けの色は、まるで墨を薄く伸ばしたようだった。
黒と灰の境に滲む光。
その光の中で、零は目を覚ました。
机の上に置かれた筆と数珠。
どちらも焦げたように黒ずんでいる。
それが、昨夜の戦いが夢ではなかった証だった。
「……終わったんだね。」
クロの声は、かすかに震えていた。
彼女の小さな身体は、夜の残滓を吸い込みながらも、どこか誇らしげに尾を立てている。
零は頷き、ゆっくりと立ち上がった。
「“葬列の呪い”は途絶えた。だが、綺堂の“名”は完全には消えない。」
「え……?」
「彼は“名を奪う者”ではなく、“名に溺れた者”だった。奪うことでしか存在を確かめられなかった。」
クロは黙って零の顔を見上げた。
その表情には、安堵よりも深い疲労が刻まれていた。
「ねぇ、零。」
「あたしさ、思ったんだ。」
零が目を向ける。
「あんたの“名”ってさ、人が呼ぶからそこにあるんでしょ?」
「そうだ。名は他者が与えるものだ。」
「じゃあ、あたしが呼んでる限り、“黒乃零”は消えないってことだよね。」
零は小さく笑った。
その笑みは、ほんの少しだけ人間らしかった。
「――そういうことだ。」
事務所の窓の外で、風鈴がかすかに鳴った。
街はいつものように動き始めている。
だが、その音の奥に――
かすかな祈りのような声が混じっていた。
「……黒乃先生……助けて……」
クロが耳をぴくりと動かす。
「……また依頼?」
零はうっすらと目を開け、筆を手に取った。
「呪いは尽きぬ。祈りもまた、終わらぬ。」
「ねぇ、怖くないの?」
「何がだ。」
「いつか、“黒乃零”って名が誰にも呼ばれなくなったら……。」
零は筆の先を見つめた。
墨の黒が、どこか温かく光っていた。
「その時は、“名”ではなく“想い”が残る。俺が祈った人間たちの中に、言葉なき形で。」
「……あたしの中にも?」
「当然だ。」
クロは小さく笑い、そのまま窓辺に飛び乗った。
「そっか。じゃあ、呼び続けるね。」
「頼んだ。」
その夜。
事務所の灯が落ちた後、零は机に向かって静かに筆を走らせていた。
書いているのは、名簿のような古い帳面。
『呪われた者』
『救われた者』
『祈った者』
『葬った者』
その一番下に、彼はもう一行だけ書き加えた。
『黒乃零――呼ぶ者あり。』
筆を置き、深く息を吐く。
風が通り抜け、机の上の蝋燭が小さく揺れた。
その光の中で、綺堂真宵の名が、灰のように静かに消えていった。
明け方。
クロが眠たそうに目を擦りながら尋ねた。
「ねぇ、零。“葬列”って、結局なんだったの?」
零は外の空を見上げた。
薄明の光が街の輪郭を照らしている。
「“葬列”とはな、“誰かが誰かを見送ること”だ。」
「じゃあ、あんたの葬列は――誰が見送ってたの?」
「……多分、俺自身だ。」
クロはしばらく黙り、やがて小さく呟いた。
「それって、ちょっと寂しいね。」
零は首を振る。
「いや、悪くない。人は皆、自分を見送るために生きている。」
「難しいこと言うねぇ。」
零は苦笑した。
「お前がいる限り、俺はまだ“この世の名”で呼ばれている。」
「あたりまえでしょ。あたしは、零の式神だからね。」
その言葉に、零は初めてほんの少しだけ柔らかな声を返した。
「……ありがとう、クロ。」
朝日が完全に昇る。
黒猫呪術代行事務所の扉の前に、一枚の封筒が落ちていた。
白紙の封筒。
しかし、封を開けると中には短い一文だけが記されていた。
『黒乃零様へ。あなたを呼ぶ者が、今日もひとり。』
零は微かに笑った。
クロが首をかしげる。
「なにそれ、誰から?」
「さぁな。けれど――その一文があれば、俺はまだ、“名を持つ者”だ。」
朝の光が差し込み、筆と数珠が静かに輝く。
零は窓の外を見ながら、小さく呟いた。
「――喪主、黒乃零。だが死者は、まだ筆を握っている。」
風が吹き、机の上の封筒が舞い上がった。
それは、まるで誰かの祈りのように、白い光となって天へ昇っていった。




