第二十一話 零の葬列 ― 前半 ―
――音のない夜だった。
雨も、風も、虫の声すらも止んでいた。
静寂の底に沈むような夜気の中で、黒猫呪術代行事務所の郵便受けが、わずかに軋んだ音を立てた。
「――零、何か届いたよ。」
クロの声が、眠りの淵にあった零を引き戻した。
彼は無言で立ち上がり、机の上の小刀を手に取る。
受け取り口に差し込まれた一通の封筒。
黒。
漆黒の和紙。
差出人の記載はない。
零はしばらくそれを見つめ、指先で封をなぞった。
手に伝わる冷たさ――まるで死者の肌のような感触。
「嫌な気配だね……。」
クロが毛を逆立てる。
零は短く息を吐き、封を切った。
中には一枚の紙。
血のように赤い筆跡で、たった数行だけ。
『次の葬儀 喪主:黒乃零 死者:黒乃零』
零の指先が、僅かに止まった。
文字から漂う霊気は、明らかに“本物の呪詛”だった。
書かれた血はまだ新しい。
封筒の中に、かすかに香る線香の匂い。
「……零?」
「“葬列の呪い”だ。」
零の声は淡々としていた。
だが、その眼差しの奥で、静かに墨のような気配が蠢いた。
「“葬列の呪い”?」
「呪術師を殺すための儀式だ。“葬る対象の名”を喰らい、生きたまま“存在”を死へと引きずり込む。」
クロの尾がぴんと立つ。
「……まさか、零を狙ってる?」
零は微かに笑った。
「狙われるのは、いつものことだ。だが――この書き方は古い。ただの呪詛師ではない。」
夜が明ける前、零は机の上に墨を摺り、筆を走らせていた。
古びた和紙の上に、流れるような筆跡。
その一文字一文字が、淡く光を帯びている。
「それ、対抗呪式?」
「いや、記録だ。“誰が俺の名を呼んでいるか”を知るための。」
クロが机の端に座る。
「……“名を呼ぶ”って、呪いにもなるんだね。」
「名前とは、存在を定義するものだ。だからこそ、“呼ぶこと”と“葬ること”は紙一重だ。」
零の筆が止まる。
その目は、静かに一点を見つめていた。
「クロ、覚えているか。数年前、“名を喰う男”と戦ったことを。」
クロが小さく頷く。
「……綺堂真宵。あの時の相手……。」
「そうだ。俺はあの男を封じたが、“名”までは完全に消せなかった。」
「じゃあ、この葬列……!」
「――“綺堂”だ。」
その名を口にした瞬間、部屋の空気が凍りついた。
カーテンの隙間から、夜明け前の灰色の光が差し込む。
壁に掛けられた古い鏡が、かすかに揺れた。
鏡の中に、もう一人の零が立っていた。
顔は同じ。
だが、その瞳は空洞のように黒く、唇だけがわずかに動いた。
「――おまえの“葬式”は、もう始まっている。」
次の瞬間、鏡が砕け散った。
墨のような液体が床を染める。
クロが跳び上がった。
「零っ!」
零は冷静に、筆を一閃。
墨が風を切り、破片を呑み込むように消し去った。
「……招待状だ。奴は、俺を自分の葬列に招いた。」
その日の昼、
呪術師組合の古い通信網を通じて報せが入った。
『祈祷師・白原蓮 死亡。首部焼損。葬列の行進を見た、という証言あり。』
続けて、
『降神師・鳴瀬光一 死亡。舌部腐敗。死の直前、“黒乃零”の名を呼ぶ。』
クロが目を見開いた。
「零……!」
零は淡々と答える。
「もう“儀”は始まっている。これは俺の“葬列”だ。」
夜。
零は机の上に筆を並べ、古びた数珠を手に取った。
その数珠は、封じた綺堂真宵の魂を抑えるための封印具。
彼の“名”を半分だけ閉じ込めた呪具だった。
「綺堂真宵――お前が喰えなかった半分の名。それが、今も俺の中で燻っている。」
クロが零の隣に座る。
「零、もしあんたの“名”が奪われたら……?」
「“黒乃零”という存在は消える。ただし、俺を呼ぶ声がひとつでも残っていれば、“名”は完全には死なない。」
クロが小さく笑う。
「じゃあ、呼び続けてやるよ。何回でも。」
零は微かに笑い返した。
「それで十分だ。」
翌日。
街は奇妙な静けさに包まれていた。
商店街のシャッターは閉じ、信号はなぜか同時に赤を灯している。
人の気配が、まるで霧のように消えていた。
クロが耳を立てる。
「……ねぇ、音、全部消えてない?」
零はゆっくりと立ち止まり、空を見上げた。
曇天の下、道の向こうから黒い列がゆっくりと歩いてくる。
黒服の男女。
白い手袋。
無言の葬列。
――その先頭に立っているのは、“黒乃零”だった。
クロの呼吸が止まる。
「……零……?」
「俺じゃない。“俺の名を喰った影”だ。」
影の零が、口の端をわずかに歪めて笑う。
その声は、かつて綺堂真宵が使っていた声だった。
「おまえの名は、良い響きだな。“黒乃零”。葬るのが惜しいくらいだ。」
零の指先に筆が走る。
墨が風を裂き、文字が空を刻む。
「――“名返”の陣。」
地面に広がる墨の円。
葬列の足音が一瞬止まる。
「……式号・“黒葬”開始。」
綺堂の影が口を開いた。
黒い霧が噴き出し、街の空気がすべて喪服のように沈んでいく。
零は静かに呟いた。
「――始まったな。」




