外伝4 ひきこさん ― 後半 ―
夜の雨が止んだ。
それはまるで、街そのものが息を呑むような静けさだった。
廃校舎の天井から、ぽたりと雨漏りの音が落ちる。
零は筆を置き、倒れた机のそばに座り込んだ。
クロが肩に乗り、小さく鳴く。
「零……まだ、いる。」
零は頷いた。
「ああ。まだ、祈りの糸が繋がっている。」
その視線の先――
光の中に“彼女”は立っていた。
森妃姫子――“ひきこさん”。
白い着物は雨を吸い、灰色に沈み、裂けた口はもう閉じかけていた。
だがその表情には、苦しみよりも“安堵”の色があった。
「……あの子の顔、思い出したの。」
彼女は呟いた。
声は静かで、雨音に溶けそうに柔らかい。
「小さな手で、いつもノートを抱えてた。泣き虫で、人の輪に入れない子だった。それでも、あの子だけは――あたしに笑ってくれたの。」
クロが目を細める。
「それって……絵里子さん?」
「ええ。絵里子は、誰よりも優しい子だったの。でもね……“あたしの娘”だってだけで、あの子までいじめられるようになった。それが、耐えられなかった。」
零が小さく問う。
「それで、お前は――」
「あの子を家に閉じ込めた。“外の世界は怖い”って、そう言って。でも、あの子は泣いてた。“ママが怖いのは、世界じゃなくて、自分なんだよ”って。」
彼女の目から、涙が溢れた。
それは怨霊のそれではなく、母としての最後の涙だった。
「……だから、焼いたの。家ごと。このまま生きていたら、絵里子まで“ひきこもり”になると思って。」
クロが息を呑む。
「それじゃあ、あの火事は――!」
「わたしがつけたの。娘を逃がすために。」
零は静かに目を閉じた。
「……それが、お前の“祈り”だったのか。」
「そう。でも、あの子は帰ってきた。焼け跡で、わたしを見つけた。その時の顔が、忘れられなかった。泣きながら、“どうして置いていったの”って。」
雨の止んだ廃校舎に、静かに風が流れた。
「それから、あたしは“この形”になった。外の世界を、見に行くために。」
クロがぽつりと呟く。
「……だから、子供たちを引きずってたの?」
「ええ。あの子が味わった痛みを、“誰かに分かってほしかった”の。」
「でもそれは、もう充分だ。」
零が立ち上がる。
「お前の祈りは届いた。――娘が、お前を探している。」
その瞬間、廃校舎の入口から、ひとりの女性が駆け込んできた。
息を切らせ、顔を濡らしたその姿。
森絵里子だった。
「お母さん……!」
ひきこさん――妃姫子の目が見開かれた。
「……絵里子……?」
「会いたかった……ずっと、謝りたかったの……!」
零は筆を下ろし、静かに距離を取る。
クロも黙って見守った。
ふたりの間に、雨の滴がひとつ、光を落とした。
妃姫子が一歩、近づく。
「……どうして、ここが分かったの?」
絵里子は震える声で答えた。
「先生が……黒乃さんが教えてくれたの。お母さんが、まだ“雨の中”にいるって。」
「わたしを……探してたの?」
「うん。でも……怖くて来られなかった。だって、あの日の火事が、ずっと頭から離れなくて。」
妃姫子は静かに首を振った。
「……あれは、あたしの罪。でもね、絵里子。あなたを閉じ込めたのは、守るためだったの。」
「守る……?」
「あなたが“世界を嫌いにならないように”。……あたしのようにならないように。」
絵里子の頬を涙が伝う。
「お母さん……もう、いいの。わたし、怖くない。お母さんのこと、ちゃんと覚えてるから。」
妃姫子の瞳が、ゆっくりと潤んだ。
「覚えてる……?」
「うん。お母さんがくれた傘。お母さんが作ってくれたお弁当。あの味、今でも思い出せるの。」
「……絵里子……」
その声は、もう怨嗟ではなかった。
母の声だった。
涙が頬を伝い、裂けていた口が――完全に閉じる。
「ありがとう。もう、充分よ。……やっと、雨の中から出られる。」
妃姫子の身体が、光の粒になり始めた。
白い着物が風に溶け、柔らかい光が娘の頬を撫でる。
絵里子がその手を掴もうとするが、指先はすり抜けてしまう。
「お母さん……!」
「泣かないで。わたしは、ちゃんと“見られた”から。今度は、あなたが“見る番”よ。」
「見る……?」
「誰かの痛みを、ちゃんと見てあげて。あたしができなかったことを。」
絵里子は頷いた。
涙の中で微笑みながら。
「うん……約束する。」
「いい子ね……。」
光が強くなった。
廃校舎の天井が開け、雲間から月が覗いた。
その光の中で、妃姫子は穏やかに消えていった。
まるで、雨に打たれた花が、静かに散るように。
しばらくして、残されたのはただの廃墟と、床に落ちた古びたランドセルだけだった。
絵里子はそれを拾い上げ、胸に抱いた。
「……お母さん。」
零は傍で黙って立っていた。
クロがそっと呟く。
「零……今度の“呪い”は、ちゃんと“祈り”になったね。」
零は頷き、筆の先に残った墨を空へ放った。
黒い雫が夜空に溶け、やがて小さな光になって消える。
「――母の愛は、最も強い呪いであり、最も深い祈りだ。」
その声は、夜風に乗って静かに響いた。
翌朝。
街には、久しぶりの青空が広がっていた。
雨で濡れた街路樹が光を反射し、通学路を歩く子供たちの笑い声が戻ってくる。
黒猫呪術代行事務所の窓から、クロが外を眺めながら呟いた。
「ねぇ、零。“ひきこさん”って、もういないの?」
零は湯呑みを置き、静かに答えた。
「“怪異”としては消えた。だが、“母が子を想う祈り”としては、まだ残っている。」
「つまり?」
「――雨の日に、迷った子供の傘が風で飛んだら、誰かが拾ってくれるだろう。それが、“彼女”だ。」
クロは目を丸くし、少しだけ微笑んだ。
「……それなら、悪くないね。」
零は頷き、窓の外に目を向けた。
遠くで、白い傘を差した女が、子供の手を取って横断歩道を渡っていた。
その背中は、確かに“森妃姫子”の面影を残していた。
風が吹く。
雨上がりの空に、淡い虹がかかる。
クロが呟く。
「零、雨、好き?」
零は微かに笑った。
「――嫌いじゃない。雨は、祈りの音だからな。」




