外伝4 ひきこさん ― 中半 ―
雨が、地を叩きつけるように降っていた。
夜の廃校舎を包む暗闇は、まるで空気そのものが腐っているかのように重く、湿っていた。
零とクロは校庭の中央に立ち、ゆらりと近づいてくる“白い影”を見つめていた。
ずる……ずる……。
その音は、肉を引きずる音だった。
ぬかるんだ地面を擦り、泥と血を混ぜて長い跡を描く。
女は、白いボロの着物をまとい、
首筋まで濡れた長い髪を垂らしていた。
顔を覆うその髪の隙間から、異様に釣り上がった瞳だけが光を反射する。
零は無言で筆を構え、クロが唸り声を上げて低く言った。
「零……あれ、本物だよ。“形”が完全に固定されてる。生霊や幻じゃない……。」
零の声は冷静だった。
「……ああ。長く“語られすぎた”怪異だ。都市伝説が祈りや怨嗟を喰って、自我を持った。」
女が首を傾けた。
口元から、濡れた舌が覗く。
そして、裂けた唇がにたりと開く。
「……みんな、あたしを“ひきこさん”って呼ぶの。……でも、本当は――妃姫子。」
女の足元で、引きずられていた子供の死体が、
ぴくり、と小さく動いた。
まるで生きているかのように。
クロが飛び出そうとした瞬間、零が腕を伸ばして止めた。
「動くな。――“反応している”だけだ。」
女の指が、子供の髪を優しく撫でた。
「この子、ね。あたしを見たの。……だから、連れてきたの。……ねえ、綺麗でしょう?」
クロが小さく震えた。
「……ねぇ、零、あれ……“愛してる”みたいな目、してる。」
零は頷いた。
「彼女は“母”だ。この姿になっても、“愛する形”を捨てていない。――歪んだまま、永遠に。」
女がゆっくりと顔を上げる。
その瞳は涙のように濡れ、裂けた口が言葉を紡いだ。
「あたしの子はね、いじめられてたの。毎日、泥の中を引きずられて。だから、あたしも同じことをしてあげるの。優しく、ね……。」
零は一歩、前へ出た。
筆先から墨が滴り落ちる。
「それは救いではない。――ただの、永遠の苦痛だ。」
女が嗤う。
「苦しい? ……違うわ。あたしは、やっと“わかってもらえた”の。この子たち、みんな泣くの。『もうやめて』って。その声を聞くたびに、あの子の声が重なるのよ。」
「“助けて、ママ”って――」
その瞬間、周囲の校舎の窓という窓から、無数の手が這い出してきた。
泥まみれの子供の手。
血と水を滴らせながら、地を掴むように伸びてくる。
クロが叫ぶ。
「零っ! この空間、完全に“取り込まれてる”!」
零は筆を振り抜いた。
「式号・“封界”――!」
墨の陣が地を走り、子供たちの手が一斉に凍りついたように止まる。
雨音だけが響く。
女――ひきこさんは動じなかった。
むしろ、その裂けた唇の端を吊り上げる。
「……あなたも、あの子を引きずるの?」
「俺は、“記憶を解く者”だ。引きずることはしない。――救うだけだ。」
「救い? そんなもの、なかったのよ。先生も、友達も、母も、誰もあたしを見なかった。だから、あたしは見られたかった。見られて、嫌われて、壊されて――それで、ようやく“あたし”になれたの!」
風が吹き抜けた。
雨が舞い、校舎の壁にひびが走る。
零は静かに呟いた。
「――“見てほしかった”か。」
「そうよ。だから、今度はあたしが見る番。見た子たちは、引きずって、“見えないところ”まで連れて行くの。」
「“見えないところ”……?」
「あたしの家。みんな、そこで眠ってるの。」
クロが顔をしかめる。
「……“引きこもり”……」
零は低く呟いた。
「……森妃姫子。“ひきこもり”の反転か。」
女の瞳がゆらりと揺れ、再び零を見据えた。
「あなた、あたしのことを知ってるのね。」
「お前の娘――絵里子さんが、俺に依頼をした。」
その名を聞いた瞬間、ひきこさんの動きが止まった。
「……絵里子……?」
「お前の娘だ。お前の死後も、苦しみ続けている。お前の呪いが、街に広がっているからだ。」
女の肩が震えた。
長い髪の下で、何かがぐしゃりと崩れる音がした。
「……あの子は……まだ、生きてるの?」
「生きている。だが、お前のせいで母としての“死者の連鎖”が続いている。」
沈黙。
雨音が、再び強くなった。
やがて、女は小さく笑った。
「……生きてるなら、会いたい。でも、あたしはもう……“人間じゃない”のね。」
零は筆を構え直す。
「まだ、間に合う。“祈り”に戻ることができれば、お前は解ける。」
「……祈り?」
「お前の“愛”を、“呪い”ではなく“願い”に変えるんだ。」
「そんなこと、できるの……?」
「できる。――お前が、それを望むなら。」
女が微かに頷く。
その裂けた口から、涙が流れた。
「……絵里子に、謝りたい。」
その言葉を最後に、廃校舎の奥――旧理科室の扉が、ひとりでに開いた。
中は暗く、机の上に古いノートと白いカーテンだけが残っている。
零はゆっくりと足を踏み入れた。
クロがその背中を追う。
部屋の隅には、古びた机と……
その上に並ぶ、無数の“子供の靴”。
大小さまざまな靴が整然と並び、それぞれに小さな紙片が添えられていた。
クロが息を呑む。
「これ……全部……」
零は無言で近づき、一枚の紙を拾った。
そこには、震える字でこう書かれていた。
『ごめんなさい でも もういじめないでね』
筆跡は幼い。
泣きながら書かれたように滲んでいる。
零は静かに言った。
「これは、絵里子が幼い頃に書かされた“謝罪文”だ。」
「……つまり、ひきこさんは――“娘の罪”を自分が背負おうとしていた?」
「そうだ。彼女は“加害者の母”としても、“被害者の母”としても、赦されなかった。だから、自らの愛を呪いに変え、“引きずる母”になった。」
「……ねえ。」
声がした。
振り向くと、ひきこさんがそこに立っていた。
その瞳には、初めて“恐れ”が宿っていた。
「あたし、あの子の顔を……もう思い出せないの。」
零は筆を下ろし、淡く光る墨陣を床に描いた。
「――思い出させてやる。」
墨が滲み、床に黒い花の形が浮かぶ。
その中心で、ひきこさんの影が震え始めた。
「あ……あぁ……!思い出す……思い出すのよ……!」
女の裂けた口から、叫びが漏れる。
それは苦痛ではなく、――懐かしさの混じった、涙のような声だった。
クロが小さく呟く。
「零、これ……“祈りに戻ってる”。」
零は筆を止め、静かに言葉を紡ぐ。
「森妃姫子。お前の祈りを――娘へ、還す。」
女の身体が淡い光に包まれ、裂けた口が、ゆっくりと閉じていく。
頬を伝う涙が透明に変わる。
「絵里子……ごめんね……。」
その声が、雨に溶けていった。




