外伝4 ひきこさん ― 前半 ―
夜の街を、雨が静かに叩いていた。
梅雨が明けぬまま長く続く雨に、人々は傘を差しながら足早に帰路を急ぐ。
濡れたアスファルトに映る光が、まるで水底のように揺れていた。
――その中に、ひとつだけ、異質な足跡があった。
白い足袋。
破れた布。
裸足ではないが、靴でもない。
重い何かをずるずると引きずる音。
ずる……ずる……。
足跡の先には、傘も差さずに歩く女がいた。
白い着物は泥にまみれ、髪は濡れて首筋に張り付いている。
その手には、何かを引きずっていた。
最初、それは人形のように見えた。
だが、近づいて見れば、それは――子供だった。
小学生ほどの少年。
すでに意識はなく、血と泥でずるずると地面を引きずられていた。
「……あの子をいじめたのは……おまえたち?」
雨音に紛れて、その声は低く笑った。
女の顔を覗けば、目は釣り上がり、唇は耳の端まで裂けていた。
裂け口の奥で、舌がぞり、と蠢いた。
そして次の瞬間――
女と目が合った子供の姿が、ふっと視界から消えた。
翌朝、街は騒然としていた。
連日の子供の不審死。
発見現場はいずれも人通りの少ない路地。
共通していたのは――遺体の足が、すべて不自然に“引きずられた跡”を残していたことだった。
警察は連続殺人事件として調査を進めていたが、
決定的な証拠も目撃者もいない。
ただ、「夜の雨の日に、白い着物の女を見た」という証言だけが、各所から囁かれていた。
黒猫呪術代行事務所。
静かな雨音が窓を叩いている。
クロは机の上で丸くなりながら、外を眺めていた。
「……ねぇ、零。最近、街がざわついてるよ。」
零は筆を走らせながら答える。
「“ざわついている”という表現は正しいな。街の霊脈が乱れている。」
「やっぱり、あの事件?」
「おそらくは。……“子供を引きずる女”。都市伝説の範疇で語られている“ひきこさん”の顕現だ。」
クロは背を伸ばし、
耳をぴくりと動かした。
「ひきこさん……あれ、ただの噂じゃなかったの?」
「噂というのは、“誰かの記憶”が形を変えて流れたものだ。誰かが強く信じ、誰かが恐れれば“噂”は“形”を持つ。」
「じゃあ、本当にいるんだ……。」
零は筆を止め、
静かに窓の外を見つめた。
雨粒が光を滲ませていた。
「――そして、誰かがその名を呼べば、“またひとつ、雨の下に現れる”。」
そのとき、事務所の扉が控えめに叩かれた。
「……あの……黒乃先生、いらっしゃいますか……?」
女性の声だった。
震えるような、押し殺した声。
零は筆を置き、扉を開けた。
入ってきたのは三十代前後の女性。
傘を持たず、髪も服もずぶ濡れだった。
その目は涙と雨で濡れ、手には古いランドセルを抱えていた。
「……お願いです。息子の仇を……殺して下さい。」
クロが小さく息を呑む。
「息子……って……?」
女性は震える声で続けた。
「先週……息子が殺されたんです。警察は事故だって言うけど、そんなはずありません……。あの子、引きずられて……身体が……ぐちゃぐちゃで……!」
零は静かに女性を椅子に座らせ、湯呑みを差し出した。
「落ち着いてください。あなたの名前を、教えてください。」
「……森……森絵里子です。」
その名を聞いた瞬間、零の筆がわずかに震えた。
クロが気づいて目を丸くする。
「零……?」
零は短く息を吐き、机の引き出しから古い書物を取り出した。
そこには、薄く滲んだ墨文字でこう記されていた。
『森妃姫子――ひきこさん。妬みと孤独により、己を封じ、“雨の女”と化す。』
零は小さく呟く。
「……森、妃姫子。」
絵里子が顔を上げる。
「……え……?」
「あなたの名字は“森”。この名に、何か心当たりはありますか。」
女性は一瞬だけ、何かを思い出すように黙り込んだ。
そして、かすかに震える声で言った。
「……母が……そう呼ばれていました。」
クロの尾が震えた。
「まさか……!」
零は瞳を細める。
「つまり、“ひきこさん”はあなたの母親――森妃姫子の亡霊、ということです。」
絵里子は唇を噛み、涙をこぼした。
「……母は……昔、教師をしていました。でも、生徒たちから陰で嘲られて……やがて誰とも話さなくなって……。最後は、自分の家に引きこもって……。」
「……それで?」
「ある日、家が火事になって……母は、あの部屋で焼け死にました。でも、遺体のそばには、小さな子供の靴があったんです。」
「子供の……靴?」
「はい。家にいたはずのない子の靴が……。母は最後まで“子供を恨んでいた”と……。」
零は深く頷いた。
「“恨み”と“祈り”は表裏一体。彼女は子供を憎みながら、同時に“自分が子供だった頃の姿”を求めた。」
クロが低く言った。
「だから、子供を引きずって……?“自分と同じ痛み”を与えてる?」
零は静かに目を閉じた。
「そうだ。ひきこさんは“虐げられた少女”の怨念が、母の形を借りて顕現した存在。――母と娘、恨みと愛が混じり合った“連鎖の怪異”だ。」
絵里子は泣き崩れた。
「お願いです……!母を、止めてください……!」
零は湯呑みを置き、筆を握り直した。
「引き受けましょう。ただし、呪いの代行ではなく――“鎮魂”として。」
クロが立ち上がる。
「また、雨の日だね。」
零は傘を取り、静かに頷いた。
「“彼女”は、雨の中でしか姿を見せない。――夜が降る前に、行くぞ。」
夜。
雨脚が強くなる。
街の灯が滲み、ネオンが歪む。
零とクロは廃校舎跡地の前に立っていた。
ひび割れたコンクリート。
錆びた鉄柵。
校庭の片隅には、古びた遊具と、雨水を溜めたプール跡が沈んでいる。
「ここが、絵里子の母親が最後に教えていた学校……。」
クロが小声で言う。
零は頷き、傘を閉じた。
風が吹き抜けた瞬間、校舎の窓がかすかに軋んだ。
ずる……ずる……。
何かを引きずる音。
クロが毛を逆立てた。
「来た……!」
闇の向こうから、白い影がゆらりと現れた。
それはゆっくりと、何かをずるずると引きずりながらこちらへ歩いてくる。
長い黒髪。
裂けた口。
濡れた着物の裾から、血が垂れていた。
引きずられているのは――
小さな子供の亡骸だった。
「……また、見つけた……。」
女が笑う。
裂けた口の奥で、黒い舌がぞり、と蠢く。
クロが低く唸る。
「零っ、あれは……!」
零は筆を構え、静かに言葉を紡いだ。
「森妃姫子――いや、“ひきこさん”。あなたを、ここで終わらせる。」




