第二十話 廻り灯籠の家 ― 後半 ―
――夜が、ひときわ深く沈んでいた。
更科家の屋敷を包む雨は、音を潜めていた。
外の世界はまるで息をひそめ、屋敷の中だけが時を取り戻そうと、静かに息づいているようだった。
廻り灯籠は、もうほとんど光を失っていた。
回転も止まりかけている。
だが、その静止は“終わり”ではなく――
“祈りの始まり”を告げる静寂だった。
クロが灯籠を見上げて、低くつぶやいた。
「零……もう止まるの?」
零は頷いた。
「――ああ。けれど止まるということは、“形を変える”ということだ。灯籠が祈りを宿す限り、この家の想いは消えない。」
静江は両の手を合わせ、灯籠に向かって祈るように目を閉じた。
「……あの子を、どうか導いてください。」
零は筆を取り、灯籠の前に座る。
墨を溶かしながら、静かに言葉を落とす。
「祈りを封じるのではなく、“還す”儀を行う。澪の魂を灯籠から解き放ち、家の記憶と共に風へ還す。」
クロが小さく鳴いた。
「また、“風”なんだね。」
零は微かに微笑んだ。
「風は、祈りの通り道だからな。」
その時――。
灯籠の内側で、再び光が灯った。
今度は穏やかな白。
それは怒りや嘆きではなく、まるで“誰かの微笑み”が灯ったような優しい色だった。
「……お姉ちゃん。」
声がした。
廊下の奥から、澪の姿が歩いてくる。
白い着物の裾が風に揺れ、足音はほとんど響かない。
けれどその顔には、もう怨の影はなかった。
静江が涙を流しながら立ち上がる。
「澪……!」
少女はゆっくりと微笑んだ。
「お姉ちゃん。わたしね、あの日のこと、まだ覚えてるよ。お姉ちゃんが泣きながら“忘れなさい”って言った声。あの時の雨の音。全部、覚えてる。」
静江は首を振る。
「もういいの……。忘れていたのは、私の方だったわ。あなたが、私を守ってくれたのに……。」
澪はゆっくりと灯籠に手をかざす。
「この灯り、ずっと見てたの。回るたびに、みんなの顔がぼやけていって、私の名前も薄れていった。」
零が前に出る。
「それでも君は、祈り続けた。“誰かに思い出してほしい”という祈りを。」
澪は頷いた。
「うん。でもね、今はもう大丈夫。お姉ちゃんが、わたしを思い出してくれたから。」
風が屋敷の中を通り抜け、提灯の紐を揺らした。
クロがふと呟く。
「……澪ちゃん、これからどこへ行くの?」
少女は空を見上げ、穏やかに笑った。
「風の中。きっと、お母さんもお父さんも待ってる。」
静江の嗚咽が止まらない。
「――行かないで……。もう一度、一緒に……」
澪は首を振る。
「お姉ちゃん、祈りってね、“一緒にいる”ことじゃないんだよ。“想い続けること”なんだ。」
零が筆を掲げた。
「式号――“灯解の陣)”。灯りを解き、祈りを風へ放て。」
筆が宙を走る。
墨の線が光に変わり、床に円を描く。
灯籠の光が再び強まり、屋敷全体を包んだ。
ちりん……。
柔らかな音が響いた。
灯籠の回転が完全に止まり、内側の紙がゆっくりとほどけていく。
光は形を変え、澪の姿を包みこんだ。
少女が微笑む。
「ありがとう。これで、“わたしの祈り”も、回り続けなくていい。」
彼女の身体が淡く透けていく。
光の粒が風に溶け、屋根の隙間から外へと流れていった。
雨は、もう止んでいた。
夜空には雲の切れ間から星が覗き、風が山の上を渡っていく。
静江は膝をつき、その光を見送ったまま、ゆっくりと手を合わせた。
「……ありがとう、澪。あなたの祈りを、今度は私が、受け継ぐわ。」
零は筆を収め、灯籠の残骸に手をかざす。
崩れた木片の中から、小さな木彫りの桜が現れた。
澪が幼い頃に彫ったもの――
中央には、震えるような文字でこう刻まれていた。
『おねえちゃんと わたし』
クロがその桜を見つめ、そっと呟いた。
「……祈りって、こんなにも優しいんだね。」
零は小さく微笑む。
「祈りとは、本来“優しさ”の形だ。誰かのために忘れ、誰かのために思い出す。その繰り返しが――命を繋ぐ。」
翌朝。
霧が晴れ、陽光が山を照らした。
更科家の庭に立つ桜の木が、ひと枝だけ花をつけていた。
季節外れのその花びらが、風に乗ってひらりと舞う。
クロが尻尾で空を指した。
「ねぇ、零。見て。あれ、澪ちゃんの花かな。」
零は頷いた。
「“忘れない祈り”が咲いたんだ。」
静江が縁側に座り、朝の光を浴びながら小さく微笑む。
「零さん……。あなたのおかげで、家の中が明るくなりました。」
「それは、あなたが“思い出した”からです。祈りは、いつも心の中で灯っています。」
老女の頬を涙が伝い、桜の花弁がその手に落ちた。
クロが小さく鳴く。
「ねぇ零、人って、“忘れたい”ことと“忘れたくない”こと、どうやって区別するんだろうね。」
零は空を見上げながら答える。
「きっと、それは“残る方”だ。どんなに忘れようとしても、風が吹けば思い出す。それが、“祈りの残り火”だ。」
クロは静かに頷いた。
「じゃあ、この風も、澪ちゃんの祈りなんだね。」
「そうだ。そして、これからも――誰かがその風を受け継ぐ。」
黒猫呪術代行事務所に戻った夜。
零は机の上に、小さな灯籠の欠片を置いた。
それは静江から預かった、“祈りの証”。
彼はその欠片に小さく筆を走らせ、ひとつの文字を書き記した。
『祈』
クロが机の上で丸まりながら、瞳を細める。
「ねぇ、零。いつか、あたしたちがいなくなっても、誰かがこうして“祈り”を残してくれるのかな。」
零は筆を置き、小さな灯籠をそっと撫でた。
「残るさ。風の音にも、灯の揺らぎにも、名前を呼ぶ声にも。」
「――祈りは、形を変えて続く。それが、呪いを超えた人の想いだ。」
クロが小さく鳴く。
「にゃぁ……」
その声に応えるように、窓の外で風鈴が鳴った。
ちりん……
夜風が通り抜け、灯籠の欠片が一瞬だけ、まるで命を宿したように光を放った。




