第二十話 廻り灯籠の家 ― 中半 ―
夜の帳が降りるころ、更科家の屋敷には、再び雨が降り始めていた。
外の山から吹き下ろす風は湿り気を含み、木々のざわめきが耳の奥でざらつくように響く。
灯籠はまだ、ゆっくりと回っていた。
だが零の結印の効果で光は落ち着き、先ほどのような呻き声は止んでいる。
それでも、何かが「待っている」気配だけは、確かに残っていた。
クロが畳の上で尻尾を丸め、低く唸った。
「……静かだけど、全然落ち着かないね。まるで“息を潜めてる”感じ。」
零は筆を置き、灯籠の前に座った。
「動きを止めても、呪式そのものは生きている。――この家の“祈り”が、完全には終わっていないからだ。」
「祈りが生きてるって、どういうこと?」
零は灯籠を見上げた。
「この式は、“忘却”と“継承”を同時に行う術だ。亡くなった者を鎮める代わりに、生きる者の記憶を削ぎ落としていく。その循環が“家の命”になっていたんだ。」
クロは耳を伏せた。
「……つまり、祈るたびに“家族のことを忘れていく”ってこと?」
零は静かに頷いた。
「そう。この家の“祈り”は、“忘れること”で成り立っていた。だが、澪だけは――それを拒んだ。」
風が吹き抜け、灯籠の紙が揺れた。
中から一瞬、少女の笑い声のようなものが聞こえた。
「おねえちゃん、わたし、覚えててほしいの。」
零が眉をわずかに動かす。
「……“願い”が残っている。」
クロが息を呑んだ。
「澪ちゃん……まだこの家にいるんだね。」
仏間の奥には、古い木の扉があった。
静江が震える手で扉を開ける。
その先は蔵へと続く細い廊下。
暗闇の奥から、土の匂いと紙の匂いが混じった空気が流れてきた。
「この奥に、“家の記録”があるのです。」
静江の声は小さく震えていた。
「昔から、亡くなった者の記録や戒名を灯籠に移したあと、残りをこの蔵に納めてきました。ですが――最近、いくつかが消えてしまって。」
「消えた?」
「はい。誰かが触ったわけでもないのに、紙が灰のようになって崩れていたんです。」
零は歩を進めた。
蔵の中は冷たく、ひんやりとした湿気が肌にまとわりつく。
木棚の上には無数の古い紙束。
墨で書かれた戒名、日付、祈祷の記録。
その中の一角――
ぽっかりと、紙束の消えた空間があった。
クロがひそやかに言う。
「まるで“ここにいた誰か”が消えたみたい……。」
零は指先で棚の縁をなぞる。
「――ここが“記憶の断層”だ。」
「断層?」
「灯籠が回るたびに、ひとつずつ“記録”が消える。そしてこの空間に穴が開く。家の記憶を削り取る代わりに、“祈り”を続ける。それが代々受け継がれてきた“更科の儀”だ。」
クロが低く呟いた。
「……そんなの、呪いじゃん。」
「――だが、始まりは“救い”だった。」
零は墨色の瞳を細める。
「数百年前、この家では大きな災厄があった。疫病、飢饉、戦。その中で、誰もが“忘れたい記憶”を抱えていた。先祖はそれを祈りに変え、灯籠に封じることで、村を守ろうとした。」
「つまり、“祈り=記憶を消す儀式”として始まったんだね。」
「そうだ。だがそれが世代を重ねるうちに、“忘れること”が目的になってしまった。」
クロは目を伏せた。
「……澪ちゃんは、それに逆らったんだ。」
そのとき、蔵の奥から、かすかな音がした。
……かた、かた……。
零が顔を上げる。
棚の隙間から、青い光が漏れていた。
クロが背を丸め、毛を逆立てた。
「零、来る……!」
次の瞬間、
棚の奥から“灯籠の残光”が伸び、蔵全体を照らした。
光の中に、人影が浮かぶ。
それは白い着物を着た少女――澪の姿。
「――お姉ちゃん。」
静江が息を呑み、震える声で名を呼ぶ。
「……澪……!」
少女は静かに首を傾げた。
「どうして、忘れてくれないの?」
零が一歩前に出た。
「君は“灯籠の中”に残った祈りだな。」
澪の瞳が、深い闇のように揺れる。
「わたしは、忘れられない“祈り”そのもの。でも、この家では――“忘れない”ことが罪なの。」
「罪?」
「みんな、忘れることで救われてきたの。苦しいことも、悲しいことも。でも、忘れたくなかった人の想いまで――消えてしまった。」
クロが涙声で呟いた。
「それって、澪ちゃん自身のこと……?」
少女はゆっくりと頷いた。
「お姉ちゃんが、“あの日”のことを忘れた時、わたしは灯籠の中に閉じ込められたの。お姉ちゃんを守りたくて、でも、もう“記憶”に戻れなくなった。」
静江の膝が崩れた。
「……そんな……。私は……自分を守ることしか考えていなかった……。」
澪は悲しげに笑う。
「いいの。お姉ちゃんが生きてくれたなら、それで良かった。でもね――この家の祈りは、もう壊れかけてるの。」
零が筆を構えた。
「君が“守っていた祈り”を解かない限り、この家は、消える。」
澪は零を見つめ、微笑んだ。
「じゃあ、あなたが教えてくれる?“祈り”って、何なの?」
零は短く息を吸った。
「祈りとは――“忘れるための言葉”ではなく、“受け継ぐための想い”だ。」
澪の瞳が揺れる。
「受け継ぐ……?」
「忘れることで守る時代は、もう終わった。今は、覚えていることこそが“祈り”だ。」
その言葉に、澪の光が震えた。
「……お姉ちゃん、わたし、忘れられたままで良かったのかな……。」
静江が立ち上がり、震える手で妹の影に触れようとする。
「――澪。ごめんなさい。私はずっと、あなたのことを……」
その瞬間、灯籠が再び光を放った。
ごぉ……っ。
蔵全体が青白く輝き、紙が舞い上がる。
澪の身体が光に包まれ、零の陣が発動しかけた。
クロが叫ぶ。
「零っ、また灯籠が動き出してる!」
「――まだ“祈り”が決まっていない!」
灯籠の光が天井を照らし、無数の文字が浮かび上がった。
それはこの家に生きた者たちの“名前”だった。
消えかけた名が、一瞬だけ蘇る。
澪がその中に浮かびながら、静かに笑った。
「ねぇ、零さん。祈りが“忘れない”ためのものなら――わたしは、もう少しだけ、ここにいてもいい?」
零は頷いた。
「――君の祈りが“光”になるまで。」
光が静かに弱まる。
灯籠の回転が止まり、静江の頬を一粒の涙が伝った。
「……零さん。私は、もう一度あの子を思い出せました。」
零は筆を収め、静かに言った。
「記憶を取り戻した瞬間、呪いは“祈り”に変わる。それが、この家がずっと求めていた答えだ。」
クロが小さく息を吐いた。
「零……この家、やっと“時間”が動き始めたね。」
「そうだ。次は、“忘れる祈り”を終わらせる番だ。」




