第二十話 廻り灯籠の家 ― 前半 ―
湿った風が山の奥から吹き下ろしてきた。
梅雨の終わりを告げるその風は、まるで見えない手で霧を撫でるように、街を通り抜けていく。
黒猫呪術代行事務所の窓が小さく鳴った。
雨粒が硝子に散り、音もなく滑り落ちる。
零は湯呑みの茶を口に含み、ゆっくりと目を閉じた。
「……湿気が重い。」
「髪がふにゃってなるんだよね。」
机の上でクロが背を伸ばして、尻尾をぱたぱたと動かした。
零は小さく笑って、机の上の封筒に目を落とす。
封筒は古びた和紙で、滲むような筆跡で宛名が書かれていた。
『黒乃零 様どうか、灯りの声を聞いてください。
――更科 静江』
「灯りの声?」
クロが首を傾げる。
零は静かに立ち上がり、封を切った。
中には手紙と、古びた写真が一枚入っていた。
手紙の内容は、こうだ。
『この家の“廻り灯籠”が、誰も触っていないのに回っております。昔から、死者を見送る時にだけ灯す灯籠なのですが、今は誰も亡くなっておりません。灯籠が回るたび、家の記録が消えてゆきます。先日、父の名が仏壇から無くなっておりました。どうか、助けてください。』
写真には、木造の屋敷と蔵、そしてその前に吊るされた古い灯籠が写っていた。
灯籠は木製で、六角形。
内側には薄い紙が貼られ、そこに経文のような文字が透けて見える。
クロが写真を覗き込みながら言った。
「これ……灯籠っていうより、“封印”っぽく見える。」
零は小さく頷く。
「おそらく、“祈り”と“忘却”を媒介にする封印式だな。」
「忘却を媒介?」
「人の記憶を灯に閉じ込めて、死者の記録と共に“回す”……そんな古い系統の呪法がある。長い年月の中で形骸化して、いまは“家の風習”として残っているだけだ。」
クロが眉をひそめる。
「でも、それが勝手に動き出してるってことは――“忘れたくない誰か”がいるってことだよね。」
零は湯呑みを置いた。
「行こう。この依頼は、ただの呪いじゃない。――“家そのもの”が泣いている。」
山を登るにつれて、道の両脇に紫陽花が咲き乱れていた。
雨に濡れた花弁が光を受けて淡く輝き、その奥に、古い家並みが眠るように並んでいる。
「ここが……更科村。」
クロが呟いた。
零は軽く頷きながら、老女の家を探して細い路地を進んだ。
屋根瓦の隙間から蔓が伸び、家々の塀に苔が生えている。
時が止まったようなその村に、わずかに人の気配が残っていた。
「……あれだ。」
零が視線を向けた先に、重々しい門構えの古家が見えた。
門柱には「更科」と刻まれている。
門をくぐると、軒下から老女が現れた。
白髪を丁寧に結い、手には数珠を握っている。
「黒乃様……ようこそお越しくださいました。」
「更科静江さんですね。」
「はい。」
静江は深く頭を下げた。
「わざわざ山奥まで……申し訳ありません。どうか、助けてください。」
「落ち着いて。灯籠のことを、詳しく聞かせてください。」
屋敷の中は、まるで時間がそこだけ止まっているようだった。
畳は軋み、欄間には古い彫刻。
壁には先祖たちの肖像画がずらりと並び、そのどれもが淡く色を失っていた。
静江は仏間へ案内した。
部屋の中央、黒光りする木製の灯籠が置かれている。
六角形の形をしたそれは、天井から吊るされた状態で、ゆっくりと――回っていた。
「……見えますか。」
静江の声が震える。
クロが目を細めた。
「風、ないよね……?」
零は灯籠に近づく。
光は灯っていないのに、内部の紙がぼんやりと青白く光っていた。
「これは、“祈燈式”だ。」
「きとうしき?」
「古い祈祷の一種だ。死者の魂や家の記憶を“灯の回転”に移し、生者がそれを見守ることで“継承”を行う。だが……この回転は自然じゃない。」
零が筆を抜き、灯籠の下に符を置いた。
符が淡く光り、次の瞬間、灯籠の動きが一瞬止まった。
す……すぅ……。
静江の喉が鳴った。
「止まった……!」
だがすぐに、灯籠は逆回転を始めた。
クロが叫ぶ。
「逆に回ってるっ!」
灯籠の内側から、微かな声が漏れた。
「――どうして……覚えているの。」
零が顔を上げた。
声は、確かに若い女のものだった。
悲しみと怒り、そして哀切が混じった声。
静江が震えながら呟く。
「……妹です。澪という子でした。」
「亡くなったのか。」
「はい。幼い頃……“家の呪い”を絶とうとして……。」
クロが息を飲む。
「……この家、ほんとに呪われてるんだね。」
零は静かに灯籠を見上げた。
「呪いじゃない。これは、“祈りが歪んだ記憶”だ。」
「歪んだ、祈り……?」
零は筆を構えながら言った。
「誰かを想う祈りは、時に“忘れたい”と混ざる。
その相反する想いが、灯籠に記録されている。」
灯籠が再び軋む。
「――忘れて。忘れないと、あなたも壊れてしまう。」
その声が、部屋中に響いた。
風もないのに襖が震え、仏壇の鈴がちりんと鳴った。
静江は泣き崩れた。
「……澪、ごめんなさい。でも、私はもう、あなたを忘れたくない。」
零は筆を走らせた。
墨が地面に落ち、静かに光を放つ。
「式号、“結印”。記憶の回転を一時封じる。」
灯籠の光が少し弱まり、回転がゆるやかになる。
だが零は知っていた。
これは一時的な封印にすぎない。
“家の祈り”そのものが変わらなければ、また動き出す。
クロがぽつりと呟く。
「……零、これ、“忘れることで祈る”家なんだね。」
「そうだ。――だが、そろそろその祈りを、終わらせる時が来ている。」
零は灯籠を見つめたまま、低く言葉を落とした。
「この灯りを止めなければ、この家の“記憶”が消える。――そして、“祈り”も一緒に。」
外では、再び雨が降り始めた。
屋敷の屋根を打つ音が、まるで遠い鼓動のように響く。
クロが呟く。
「……零、次、灯が止まる時が、たぶん――」
零は頷いた。
「――すべての“記憶”が戻る時だ。」




