第十九話 廃駅の祈祷師 ― 前半 ―
夜の雨は、街の灯を滲ませていた。
傘を差す音、車のタイヤが水を弾く音――
それらが遠くで混ざり合い、まるで誰かの囁きのように零の耳へ届く。
黒猫呪術代行事務所の窓際。
黒乃零は湯気の立つ湯呑みを手にしながら、机の上に開いたノートパソコンの画面を眺めていた。
クロがカップの縁に前足を乗せ、覗き込む。
「メール、また来たの?」
「依頼だ。」
零は画面を軽く回し、クロに見せた。
画面には、短い文章が打たれていた。
『黒乃零様
私は祈雨線の保線担当をしている者です。十年前に廃線となった“祈雨駅”にて、深夜になると青い光が点くとの報告がありました。確認に行った者が皆、体調を崩しています。ご助力をお願いできないでしょうか。』
クロが首を傾げた。
「祈雨……って、変な名前の駅だね。“祈る雨”って書くんでしょ?」
「もとは“雨乞いの祈祷場”が近くにあった場所らしい。」
零は湯呑みを置き、
「事故で線路が崩落して、廃駅になったと聞く。」
「つまり、また“祈りの残骸”か。」
「……可能性は高いな。」
零はゆっくりと立ち上がった。
机の上に古びた木箱を置く。
その中には筆、墨、符札、そして数珠。
呪術師としての道具一式だ。
クロが肩に飛び乗る。
「行くの?」
「ああ。夜の祈雨駅――そこで灯る青い光の正体を確かめる。」
夜半過ぎ。
祈雨線の旧道を進む車のヘッドライトが、霧雨に包まれた山道を照らしていた。
クロが助手席の窓から外を覗く。
「なんか、空気が重いね。普通の廃駅の雰囲気じゃないよ。」
零はハンドルを握ったまま答える。
「“祈り”が未だに残っている。十年経っても、誰かの願いが消えていない証拠だ。」
「……ねぇ零、人の願いって、どうして呪いになっちゃうんだろう。」
「強すぎるからだ。」
「強すぎる?」
「願いとは、“届かない前提の祈り”だ。それを無理に叶えようとすれば、“現実を歪める”力に変わる。それが呪いだ。」
クロは静かに目を伏せた。
「じゃあ、“祈り”と“呪い”って紙一重なんだね。」
零は小さく頷いた。
「どちらも“想い”から生まれる。ただ、その形を選ぶのは――人間だ。」
午前一時。
車は山間の小さなトンネルを抜けた。
その先に、かつての駅の面影が見えた。
朽ちた看板には、雨に洗われて掠れた文字が残っている。
『祈雨駅』
ホームは半ば崩れ、線路には草が伸び放題だった。
構内には誰もいない。
しかし――
ぽう、と青い光が灯った。
クロが毛を逆立てた。
「今の見た!? 灯り、勝手に点いたよ!」
「……提灯の光だな。」
零は傘を開き、ゆっくりと階段を上がる。
風のない夜だというのに、どこからともなく“鈴”のような音が響いていた。
しゃら……しゃら……
ホームの端。
そこに、確かに“誰か”が立っていた。
白装束の女。
顔は伏せられ、手には青白い提灯を持っている。
髪が長く、雨に濡れながら静止していた。
零は足を止め、声をかけた。
「……あなたが、この駅の“光”の主か。」
女がゆっくりと顔を上げる。
透けるような白い肌。
瞳の奥に、まるで永い夜を閉じ込めたような青があった。
「――あなたは、列車を待つ方ですか?」
零は目を細めた。
「列車を、待つ?」
女は微笑んだ。
「まもなく来るはずです。けれど、まだ雨が止まないのです。」
クロが小声で呟いた。
「ねぇ零、この人……“生きてる”感じがしないよ。」
零は小さく頷く。
「祈りの残滓だ。“叶”――そう呼ばれていた祈祷師だな。」
女が静かに提灯を掲げる。
青い光が零の顔を照らした。
「私は、まだ“見送っていない”のです。あの夜、雨が止む前に列車が出てしまった。だから――止めたのです、時間を。」
零の眉がわずかに動く。
「時間を、止めた?」
女は小さく頷いた。
「祈りとは、願いを結ぶこと。だから、止められるはずなのです。あの人たちを、置いていかないために。」
クロが震える声を出す。
「零……これ、ただの残留じゃない。“祈りそのもの”が意志を持ってる。」
零は筆を抜いた。
「……祈りの残骸が、自ら時を縛る。これは、相当だ。」
空気が変わった。
駅舎の時計が――“動いている”。
針が震えながら、ゆっくりと逆回転を始めた。
カチ……カチ……カチ……
風が吹き、ホームの草が波のように揺れる。
遠くから、汽笛の音が響いた。
ぼぉぉぉぉぉ――……。
クロが耳を伏せる。
「ねぇ、列車なんてもう走ってないよね……?」
零は静かに答えた。
「走っていない。――だが、“過去”が走っている。」
女が提灯を掲げ、微笑んだ。
「まもなく、最終列車が通ります。この駅を最後に、止まった時間が動くでしょう。」
零が筆を構える。
「……その列車が通れば、どうなる。」
「私の祈りは終わる。でも……あなた方も、きっと“あの時”へ行く。」
クロが息を呑む。
「零、それって――!」
ゴォォォォォ――――ッ
突如、風が吹き荒れた。
ホームの草木が千切れ、青い提灯の灯が激しく揺れた。
零が目を細め、クロを腕に抱く。
「掴まれ!」
轟音が夜を裂いた。
列車のような影が、闇の中を走り抜ける。
光も音も現実離れしていて、まるで世界そのものが一瞬“過去”へ引き戻されたかのようだった。
視界が白く染まる。
零は誰かの声を聞いた。
『祈雨、祈雨――出発進行。』
次の瞬間、地面の感触が消えた。
クロの鳴き声が遠ざかり、零の身体は、青い光の中へと飲み込まれていった。




