第十九話 廃駅の祈祷師 ― 中半 ―
――音が、遠のいた。
次に感じたのは、湿った土の匂いと、肌を打つ雨の感触だった。
零はゆっくりと目を開ける。
そこは、確かに“祈雨駅”だった。
だが、崩れたはずのホームは綺麗に整備され、列車のレールは輝くように真新しい。
クロが腕の中でもぞりと動く。
「……零、ここ……まさか……」
「“あの夜”だ。」
零は雨の中を見渡した。
人影が見える。
線路脇では作業服姿の男たちが必死に砂袋を積み上げており、列車の汽笛が遠くで鳴っていた。
ぼぉぉぉぉ――
その音は確かに、生きている音だった。
ホームの中央。
白装束の女――叶が立っていた。
今はまだ、死人のような静けさではなく、“生きた祈祷師”としての姿。
手にした紙垂が雨風で激しく揺れている。
「雨よ鎮まり給え――風よ退け給え――」
声が響くたび、周囲の空気が震えた。
だが、空は答えず、稲光が山を切り裂いた。
地面が揺れ、零の足元を泥水が這う。
クロが叫ぶ。
「零っ! このままだと――!」
零は筆を抜き、
「時間の干渉はできない。だが、“祈りの記録”を読むことはできる。」
筆先を地面に押し当てると、墨のような光が走り、景色の輪郭が滲む。
――祈りが、過去を語り始めた。
十年前の祈雨村。
長雨による土砂崩れが続き、村は孤立しかけていた。
祈祷師・叶は、代々“雨を操る”家系の最後の者。
村人たちは彼女に頼み、「列車が通れるように雨を止めてくれ」と懇願した。
叶は迷いながらも応じた。
「列車には、村を出る家族たちが乗っている。この祈りが届けば、皆が無事に――」
だが、その祈りは届かなかった。
儀式の最中に、山が崩れた。
土砂が線路を覆い、列車は動けなくなった。
叶は自らを犠牲にして祈りを続けた。
“雨を止めるまで、この地に留まる”と。
零は雨の中、彼女の背後に立った。
「……叶。」
女が振り向く。
瞳には、まだ命の光が宿っていた。
「あなたは……?」
「ただの旅人だ。だが、あなたの祈りを見てきた。それは十年先でも、まだ続いている。」
叶はわずかに目を見開く。
「十年……? 祈りは、届かなかったのですか。」
「届いたさ。」
零は静かに言った。
「列車は止まった。だが、村人たちは助かった。あなたの祈りが、彼らを護った。」
叶の手から紙垂が落ちた。
雨の中、その手が震えている。
「……本当に、届いたのですか?」
「俺は、それを確かめに来た。」
女は空を見上げる。
黒い雲の隙間に、わずかに月が覗いていた。
その光を見て、彼女の頬を涙が伝う。
「……では、私はもう祈らなくていいのですね。」
零は頷いた。
「祈りはもう“成った”。今あなたが止めているのは、“時”だ。」
叶が静かに目を閉じる。
「――怖いのです。祈りを止めれば、私も消えてしまうから。」
クロが低く言った。
「……あんた、もうずっとこの時間を繰り返してたんだね。」
「ええ。この駅で、何度も“最終列車”を見送る夢を。」
再び、汽笛が鳴った。
ホームの向こうに光が見える。
霧の中を走る銀色の列車。
だが、その列車には――人影がなかった。
誰も乗っていない。
ただ、祈りの形をなぞるように走っているだけ。
叶が微笑む。
「これは、私の“未送”ですね。」
零が頷く。
「そうだ。あなたの祈りは届いた。だが、“あなた自身”がまだ旅立てていない。」
女は静かに提灯を掲げた。
「ならば、どうすれば良いのでしょう。」
零が筆を構える。
「祈りは“送るもの”だ。自らの祈りを、もう一度“誰かのため”に放て。それが、あなたを解く唯一の道だ。」
叶は、ゆっくりと目を閉じた。
風が吹き、提灯の火が激しく揺れた。
そして――彼女は小さく呟いた。
「この駅に残るすべての魂よ。あなた方の祈りが、未来へ届きますように。」
零が筆を走らせる。
墨の軌跡が光となり、地面に円を描いた。
「式号、“風送の陣)”――祈りを風に返せ!」
光が広がり、列車の音が高鳴った。
祈雨駅全体が眩い青に染まり、雨が、止んだ。
クロが呟く。
「……止んだ……ほんとに。」
叶は微笑んだ。
その身体が徐々に透けていく。
「ありがとうございます。ようやく……送れます。」
「行け。あなたの祈りは、次の風になる。」
叶は深く頭を下げ、光の中へ歩き出した。
その瞬間、止まっていた駅の時計が動き出す。
カチリ。
「……動いた。」
クロが見上げると、列車がゆっくりと動き出し、闇の中を走り去っていった。
その後ろ姿に、叶の影が重なる。
「どうか、この祈りが未来へ届きますように。」
彼女の声は、風の中に溶けていった。
次の瞬間――
光が弾け、零とクロの身体は再び宙に浮かんだ。
ぼぉぉぉぉぉ――
最後の汽笛が響き、視界が白く染まる。
零が呟く。
「……これで、祈りは送られた。」
クロが微笑んだ。
「ねぇ、零。今の風の音、聞こえた?“ありがとう”って言ってたよ。」
零は静かに頷いた。
「ああ。――届いたんだ。」




