第十八話 鈴鳴の子 ― 後半 ―
――数日後。
春雨が街を薄く包んでいた。
窓の外ではアスファルトが静かに光を滲ませ、その奥で桜の花びらが散っていた。
黒猫呪術代行事務所の中。
机の上に置かれた筆の先から、黒乃零の指が離れる。
「……ふぅ。」
積み上げられた依頼書の束の上に、一通の白い封筒があった。
宛名は、柔らかな筆跡でこう書かれている。
『黒乃零さんへ』
クロが机の上に飛び乗り、封筒を覗き込んだ。
「また手紙? 最近多いね。」
零は頷き、封をゆっくり切る。
中からは、丁寧に折られた便箋と、小さな鈴がひとつ、転がり出てきた。
クロが目を細める。
「その鈴……まさか。」
零は静かに微笑んだ。
「――羽音からだ。」
便箋には、まだ子供の字で、
一文字ずつ心を込めたような筆跡が並んでいた。
『黒乃零さんへ
この前は、助けてくれてありがとうございました。お母さんがいなくなっても、もう怖くありません。鈴の音を聞くと、風の中で“ありがとう”って聞こえます。学校にも行けるようになりました。いつか、自分でも“誰かを守れる人”になりたいです。その時は、またお会いできますか?』
クロがにっこり笑った。
「いい子だねぇ。ちゃんと“生きる音”を響かせてる。」
零は手紙を見つめたまま、指で小さな鈴を転がした。
ちりん……
柔らかい音が響き、それは部屋の中を満たすように広がった。
その音に重なるように、遠くで少女の笑い声が聞こえた気がした。
夜。
零は屋上に出て、街の明かりを見下ろしていた。
春の風が彼の髪を揺らし、鈴の音がほんの少しだけ鳴った。
クロが隣に腰を下ろす。
「……静かだね。」
「そうだな。“呼び名の残響”が消えたせいかもしれない。」
「ううん。消えたんじゃなくて、“祈り”に変わったんでしょ?」
零は微かに笑った。
「……そうかもしれないな。」
「羽音ちゃん、きっとお母さんに届いたね。ねぇ零、あんたの“祈り”って、今はどこにあるの?」
零は少し目を伏せて、ゆっくりと答えた。
「……“ここ”にだよ。」
「ここ?」
零は胸のあたりを指した。
「依頼人たちの想い、彼らの“呼び声”が残る場所。俺は、それを胸に刻んでいる。名前を奪う呪いがあったなら――今度は、“名前を守る呪い”でいい。」
クロは尻尾で軽く彼の肩を叩いた。
「呪いを祈りに変えるのが、あんたの得意技だもんね。」
零は目を細めた。
「……そうだな。けれどそれは、俺一人の力じゃない。“呼んでくれる声”があるからこそ、この名前は存在できる。」
クロはにやりと笑い、
「じゃあ、あたしが呼んであげるよ。世界でいちばんたくさん。」
零は小さく笑って、「それは心強いな。」とだけ答えた。
雨がやんだ。
風が街を抜け、遠くで鈴の音が一度だけ鳴る。
ちりん――
零はそれに耳を澄ませる。
それは羽音の鈴でも、誰かの呪いでもない。
“祈りの声”が形を変えて世界を巡る音。
クロが目を閉じて呟く。
「ねぇ零。もし“呼ばれること”が、人の祈りだとしたら……あんたは、きっと世界中で呼ばれ続けるね。」
零は空を見上げた。
夜の帳の向こうで、薄い月が滲む。
「それなら、俺はそのすべてに返そう。――“届いている”と。」
クロが瞳を細める。
「返事、聞こえるかな。」
零は小さく微笑む。
「祈りは、声じゃない。想いが届いた時――それが“返事”だ。」
その夜、机の上に置かれた小さな鈴が、誰も触れぬまま鳴った。
ちりん……
風もないのに、鈴はやさしく揺れていた。
その音は、確かに“ありがとう”と告げていた。
クロが目を開け、零の寝顔を見つめながら呟く。
「……あんた、ほんとに不思議な人だね。呪いをほどいて、祈りを残すなんてさ。」
零は眠りの中で、わずかに口元を緩めた。
その唇が、夢の中で何かを呟く。
――“羽音”。
まるで、その名をもう一度呼ぶように。
翌朝。
窓の外では新しい光が街を照らしていた。
零は机の上の鈴を取り、窓辺に吊るした。
風が吹くたびに、ちりん……と小さく鳴る。
クロが尋ねる。
「ねぇ、それ、どうするの?」
零は答えた。
「ここに置いておく。“誰かの祈り”が通りすがるとき、音で返してくれるようにな。」
「ふふ、まるで“返信用の鈴”だね。」
零は小さく頷いた。
「呼ばれたら返す。それだけのことだ。」
昼下がり。
事務所の外では、子供たちの笑い声が響いている。
春の空気が軽く、暖かい。
クロが陽だまりに伸びながら呟く。
「ねぇ、零。また“呼び声”が聞こえたら、次はどこ行く?」
零は筆を持ち上げ、空白の帳面を開いた。
「……そうだな。次は、“誰かを呼び返したい人”のところへ。」
クロが片目を開ける。
「また、鈴の音が道しるべ?」
「きっと、そうだ。」
外から、どこかで鈴の音が響いた。
ちりん……
その音に呼応するように、零は筆を滑らせ、次の頁に墨を落とした。
春の風が吹き抜け、窓辺の鈴が、静かに鳴った。
ちりん……
ちりん……
その音は、まるで“生きる”という言葉のようだった。




