第十八話 鈴鳴の子 ― 中半 ―
夜の山道を抜け、三人と一匹は廃神社の鳥居をくぐった。
木々の間を抜ける風が、どこか人の声にも似た音を立てている。
ちりん――ちりん――
その音は、誰が鳴らすでもなく、四方八方から響いてきた。
まるで“この場所そのもの”が鈴の音で満ちているかのように。
黒乃零は筆を握り、静かに言った。
「この音は、ただの風音ではない。“魂の呼応”だ。ここに封じられた数多の“祈り”が、まだ誰かを呼んでいる。」
クロが尾を膨らませて唸る。
「まるで……死者が歌ってるみたい。」
「近い表現だな。」
零は淡く笑みを浮かべ、
「だが、歌っているのは“母親”たちの声だ。祈りが呪いに変わった場所――ここが“祈り鈴の里”の最奥だ。」
社殿の奥は崩れかけた板の間が続いていた。
そこには、大小さまざまな鈴が吊り下げられており、ひとつひとつに小さな紙片が結ばれている。
クロが前足で一枚を押さえる。
「ねえ、これ……全部、名前だよ。」
零が覗き込む。
墨で書かれた文字は、ところどころ薄れていたが、確かに“母と子の名”が対になっていた。
『雪乃――美琴』
『茜――湊』
『葉月――羽音』
羽音が小さく息を呑んだ。
「……お母さんの名前……。」
「やはり、ここに繋がっていたか。」
零の声が静かに低くなる。
「この鈴は、母が娘を“呼び寄せる”ための祈具。
けれど、祈りが過ぎれば、“呼び戻す”力を持つ呪具にもなる。」
クロがため息をつく。
「つまり、お母さんは羽音ちゃんを呼びすぎちゃった……。」
零は頷いた。
「愛が強すぎた。だが、止めなければ、この鈴たち全てが共鳴して“呼び合う”。そのとき、この山は“母の声”で満たされ、人の魂を喰う。」
羽音の目に涙が浮かぶ。
「……そんなの、嫌だ……。お母さん、悪くないのに……。」
零は少女の肩に手を置いた。
「悪いわけではない。ただ、想いの形が変わってしまっただけだ。――だからこそ、“祈り”に戻す。」
社の中央、古びた石台があった。
その上には、一際大きな鈴が置かれている。
黒ずんだ金属、ひび割れた表面、そこから淡い白煙のようなものが立ち上っていた。
羽音が震える声を出す。
「……お母さん……?」
鈴がひとりでに鳴った。
ちりん……
次の瞬間、白煙が人の形を取り始めた。
長い髪、優しげな眼差し。
それは確かに、羽音の記憶の中の“母”の姿だった。
『羽音……来て。』
その声に、羽音の足が勝手に前へ出る。
クロが慌てて止めようとするが、零が手で制した。
「待て。まだ、魂は安定していない。彼女は“生者の言葉”を求めている。」
羽音の唇が震えた。
「お母さん……どうして、私を呼ぶの?」
『あなたに……言いたかったの。寂しいときは、鈴を鳴らしてね。私、すぐ行くから……。』
「もう行ったよ……!もう何度も、鈴を鳴らしたの!でも来てくれたのは――怖い声だった!」
母の影が揺れる。
『……ああ、あれは……私じゃないの。あなたの呼ぶ声に……“別のもの”が憑いたのよ……。』
零が静かに口を開いた。
「それが“鈴の呪”。あなたの魂は祈りとして残ったが、“音”の隙間に、別の怨念が入り込んだ。」
『……そう……。じゃあ、私が……壊さなきゃ。』
クロが焦ったように言う。
「零! 壊したら彼女の魂も消えるよ!」
零は頷く。
「分かっている。だから“消えない方法”を、今から作る。」
零は筆を抜き、鈴の下に陣を描き始めた。
墨が石の上で光を放ち、複雑な文様が浮かび上がる。
「式号、“祈鈴転生陣”。
祈りを呪縛から分離し、声として留める。」
クロが見上げる。
「声として留めるって……どういうこと?」
「彼女の魂を“音”の記憶として封じる。姿も形も持たないが、風が吹けば、その音が祈りとして響くようにする。」
羽音の目が涙で滲む。
「お母さん、もう一度話したい……!」
零が静かに頷いた。
「話せ。それが、最後の“呼び名”になる。」
羽音は震える手で鈴を鳴らした。
ちりん――。
母の声が、今度はやさしく返ってくる。
『羽音……ありがとう。あなたが呼んでくれたから、私、まだここにいられた。』
「……ううん、私が呼んだから、お母さんが苦しんで……。」
『いいの。呼ばれた声が届く限り、私は“想い”でいられるの。あなたの笑顔が、私の祈り。』
羽音は涙をこぼしながら微笑んだ。
「じゃあ、もう泣かない。お母さんの声、忘れないよ。」
母の影が穏やかに微笑む。
『それで、いいの。――ありがとう、羽音。』
その言葉とともに、鈴の音が一度だけ高く鳴り響いた。
ちりん……。
零の筆が動く。
「封陣――祈鈴封!」
光が弾け、鈴を包み込んだ。
母の影は薄れ、光となって空へ昇っていく。
羽音はその光を見上げ、そっと手を伸ばした。
風が止んだ。
夜の山が、嘘のように静まり返っていた。
クロが小さく呟く。
「終わった?」
零は鈴を拾い上げ、耳元で鳴らした。
ちりん……
その音は、どこか懐かしく、温かい。
もう“呼ぶ声”はない。
けれど、“見守る気配”が確かに残っていた。
零は静かに微笑む。
「――これで、“祈り”に還った。」
羽音は鈴を抱きしめ、涙を拭った。
「お母さん、もう怖くないよ。また春が来たら、この音を聞くね。」
クロがにやりと笑う。
「いい子だね。その鈴はもう、誰も呼ばないけど……誰かを想う音になる。」
零は筆を収め、空を見上げた。
そこには雲間から月が覗き、淡い光が山全体を包んでいた。
――その光の中で、風が鈴を鳴らした。
ちりん……
まるで、母が最後に「ありがとう」と囁いたように。




