第十八話 鈴鳴の子 ― 前半 ―
――春の午後。
風がやわらかく、街路樹の枝先で小鳥がさえずっていた。
黒猫呪術代行事務所の窓から差し込む光は、冬を越えた空気の匂いを運んでくる。
黒乃零は書類の束に筆を滑らせながら、外の風に耳を傾けていた。
「穏やかだな……。」
肩の上で丸くなっていた黒猫・クロが目を細める。
「春って、ちょっと苦手。暖かいけど、なんか“眠った人の気配”が多いんだもん。」
零は微笑を浮かべた。
「この季節は、境界が曖昧になる。“こちら”と“あちら”が、風の中で混ざるからな。」
クロが尻尾で軽く彼の頬を叩く。
「そういうの、呪術師っぽく言わないで。」
零が返事をしようとしたその時だった。
――ちりん。
小さな鈴の音が鳴った。
どこか遠くから、空気を震わせて届いたような透明な響き。
だがそれは、事務所の扉の方から確かに聞こえた。
零が顔を上げると、扉の前にひとりの少女が立っていた。
年の頃は十歳前後。
淡いクリーム色のワンピースに、古びた鞄。
首には細い赤い紐で吊るされた小さな鈴。
少女は深く頭を下げた。
「……ここ、“黒乃零さん”のところ、ですか?」
零は頷いた。
「そうだ。君が依頼人か?」
「はい……。羽音っていいます。」
クロが肩から飛び降り、少女の足元を一周した。
「この子、何か普通じゃないね。」
零は膝をつき、少女の目線に合わせる。
「何か困っているのか?」
羽音は少し戸惑いながら、首の鈴を両手で握りしめた。
「……この鈴が、鳴るんです。」
「鈴が?」
「鳴るとね……“黒乃零さん”って、声が聞こえるんです。」
零はわずかに目を細めた。
「俺の名前を?」
「はい。夜になると、誰かが鈴を鳴らして、『黒乃零さん、来て』って……。でも、家の中には誰もいないのに。」
クロが耳を伏せた。
「……それ、ちょっと嫌な感じするね。」
零は少女の鈴をそっと手に取った。
指先に触れた瞬間、冷たい波のような感覚が伝わってくる。
「……これは、“呪縛鈴”だな。」
羽音が不安げに首をかしげる。
「じゅばく……?」
「魂を呼び戻す鈴だ。本来は、死者を弔うための祈具。だが、使い方を誤れば、“呼んではならないもの”まで呼ぶ。」
少女の瞳が揺れる。
「お母さんが……くれたんです。」
「お母さん?」
「はい。亡くなる前に、『寂しくなったら鈴を鳴らしてね。きっと私が来るから』って……。」
クロが小さくため息をつく。
「それ、愛情が強すぎて呪いに変わっちゃったパターンかもね。」
零は静かに頷く。
「君のお母さんの魂が、この鈴に宿っている可能性がある。けれど、それが完全な“祈り”ではなく、“執着”として残っているなら――呪いに変わる。」
羽音は唇を噛んだ。
「お母さん……そんなはずないです。」
零は穏やかな声で言った。
「信じるのは大切だ。だが、想いが形を変えることもある。それを確かめるために、鈴の音を聞かせてくれ。」
少女は頷き、胸の前で鈴を鳴らした。
ちりん――。
その音が事務所の空気を震わせる。
次の瞬間、部屋の奥の鏡がひとりでに揺れた。
映っているはずの零の姿が、わずかに歪んでいる。
クロが背を丸める。
「……出た。」
鏡の向こうから、柔らかい女の声が聞こえた。
『羽音……あなた、ちゃんと食べてる?』
少女が目を見開いた。
「お母さん……!」
零は鏡に手をかざす。
「……声は確かに“母のもの”だ。だが、波が不安定だ。魂が“定着”していない。」
女の声が続く。
『羽音、寂しいでしょう?おいで……もう一度、一緒にいましょう……。』
クロが震える声で言った。
「零、この声、下の方から“引いてる”。“呼び寄せ”じゃなくて、“引き込み”だ!」
零が筆を抜いた。
「羽音、鈴から手を離せ!」
「え……でも――」
次の瞬間、鏡が砕けた。
無数の破片が宙に舞い、その一つひとつの中で“母の顔”が揺れていた。
『来なさい、羽音。お母さんのところへ――』
零が筆を振り下ろす。
「式号、“結界・返鈴陣”!」
墨色の符が床一面に走り、鈴の音を封じ込めた。
しん――
鏡の破片が静かに地面に落ちた。
少女はその場に崩れ、零の袖を掴んだ。
「お母さん……どうして、あんなふうに……。」
零は目を閉じ、
「愛は、形を失えば呪いに変わる。けれど、まだ間に合う。君の声で、祈りに戻せばいい。」
その夜、零とクロは羽音を連れて郊外の廃神社へ向かった。
鈴の呪いの根を断つためだ。
境内は苔むし、誰も訪れた形跡がない。
しかし、社殿の奥――古びた鈴が数十個も吊り下げられていた。
クロが震える声を出す。
「これ、全部“呪縛鈴”だ……。」
零は足元の地を指でなぞる。
「“祈り鈴の里”。死者を呼び戻すために作られた集落だ。羽音の母は、その血筋だろう。」
羽音が零の袖を掴む。
「……お母さん、ここに?」
零は頷く。
「呼んでいる。君の声を待っている。」
ちりん……
風が吹き、無数の鈴が鳴り始めた。
まるで、夜の闇が“母の声”に変わるように。
『羽音……どこにいるの……?』
少女の頬を涙が伝った。
「お母さん……ここにいるよ……!」
零が筆を握り直し、声を落とす。
「――次に鳴るその音で、すべてが決まる。」
クロの瞳に、淡い光が宿る。
「零、行こう……“呼び名の祈り”を。」




