第十七話 遺された名 ― 後半 ―
――夜が明けても、街は静まり返っていた。
黒乃零は観月寺の境内に立ち尽くしていた。
墓碑の前で燃え尽きた筆が黒い灰となり、風にさらわれていく。
クロが肩に乗り、小さな声で問う。
「……終わったの?」
零は答えず、空を仰いだ。
東の空が、夜と朝の境目で赤く染まっている。
「名を奪う呪いは消えた。だが――余波はまだ、残っている。」
クロが耳を動かした。
「余波?」
「“名を喰う呪い”は、形を変えて広がる。人が誰かの名前を忘れるたびに、その魂の断片がこの世界から削り取られるんだ。」
クロは少し俯き、小さく呟いた。
「忘れられることって……そんなに怖いことなのかな。」
零の瞳が優しく揺れる。
「“忘れる”とは、“存在が薄れる”ということだ。
けれど、“思い出す”たびに、存在は蘇る。だから――祈るんだ。」
寺を後にして事務所へ戻ると、机の上に一枚の封筒が置かれていた。
宛名は――『黒乃零様』。
差出人は記されていない。
クロが封を開ける。
中には一枚の写真。
古びた白黒写真には、寺の前で微笑む男が写っていた。
クロが息をのむ。
「……これ、真神……?」
零は写真を見つめ、首を横に振った。
「いや。これは――“前の黒乃零”だ。」
写真の裏には、墨でこう記されていた。
『名は渡した。次は“祈り”を守れ。』
クロの瞳が潤む。
「……これ、前の零さんが残した言葉?」
零は短く頷いた。
「ああ。俺に名を託した者の“遺言”だ。」
「じゃあ、あんたは……その人の代わりに生きてるの?」
「代わりではない。“同じ祈り”を続けているだけだ。」
その日の夕方、
街のニュースで奇妙な報告が流れた。
「昨夜から、市内各地で“名前を忘れる”症状が相次いでいます。被害者は突然、自分や家族の名前を思い出せなくなり、強い頭痛と混乱を訴えています。」
クロが跳び上がった。
「これが……呪いの余波?」
零は静かに立ち上がる。
「“真神の残骸”だ。奴が奪った名前たちが、まだ彷徨っている。」
「放っておけないね。」
「行くぞ。」
黒猫呪術代行事務所の扉が、静かに開いた。
夜の街は、どこか色を失っていた。
人々の顔に生気がなく、通りのあちこちで“自分の名”を呼び続ける声が響く。
「わたしの名前……わたしの……」
「誰か、俺の名前を……」
クロが怯えたように言う。
「みんな、魂が抜けかけてる……。」
零は人々の群れの中を歩き、交差点の中央に立った。
足元に、見えない呪陣が渦巻いている。
空気が歪み、電灯がひとつ、またひとつと消えていく。
「……ここが中心か。」
クロが問う。
「どうするの? また“返還式”を?」
「いや、今度は違う。“奪われた名”を取り戻すには、“誰かが呼ぶ”しかない。」
クロが驚く。
「呼ぶって……全部の名前を!?」
「そうだ。」
零は筆を構え、空に向かって詠唱を始めた。
「――式号、“祈名連陣”。呼ぶ声を繋げ、忘れられた名を蘇らせよ。」
光が筆先から溢れ、夜空に浮かぶ。
その光は糸となり、街中へと広がっていった。
やがて、人々の口から自然と声がこぼれた。
「……わたしは……結衣。」
「俺は……拓真。」
「お母さん……お母さん……!」
途切れていた“呼び名”が、次々と戻っていく。
光が街を包み、忘れられた名前たちが空へ舞い上がる。
クロの目が潤む。
「すごい……みんな、思い出してる……!」
零の額には汗が滲む。
その身を削るようにして、祈りを繋いでいた。
「名は……生きる証だ。奪われても、呼び続ける限り……消えはしない……。」
クロが心配そうに寄り添う。
「零、もうやめて……あんたの体が……!」
「大丈夫だ。俺には、俺を呼ぶ声がある。」
クロが小さく頷く。
「……あたしが、呼ぶよ。何度でも。」
零の唇が、わずかに微笑んだ。
「それで十分だ。」
夜明けが訪れた。
街は静まり、忘れていたはずの人々の名前が、再び日常の中で呼ばれていた。
零は屋上に立ち、朝日を見つめる。
クロが隣で尻尾を揺らす。
「これで、“名を喰う呪い”も消えた?」
「……ああ。真神が残した“奪う術”は、祈りの声に飲まれた。」
クロはほっと息をつき、空を見上げた。
「ねぇ、零。あんたの名前も、誰かが呼んでくれる?」
零は少し考えてから答えた。
「それは分からない。だが――」
彼は微笑み、筆を握る。
「呼ばれなくてもいい。俺が誰かを“呼ぶ側”で在り続ければ、それでいい。」
クロがにやりと笑う。
「でも、あたしは呼ぶよ。何度でも、どんな時でも。」
零はその声に目を細めた。
「……ありがとう、クロ。」
その日の夜。
事務所の窓際で、零は机に筆を置いた。
蝋燭の炎が揺れ、影が壁に踊る。
クロは丸くなり、うとうとしている。
静かな夜だった。
街のどこかで、誰かが誰かの名前を呼ぶ声が聞こえる。
それは“呪い”ではなく、確かな“祈り”だった。
零は独り言のように呟く。
「――名とは、残響だ。呼ぶ声がある限り、人は世界に在り続ける。」
クロが小さく鳴き、
「……にゃぁ……」
零は微笑み、筆を取った。
新しい帳面を開き、その一番上に静かに書く。
『黒乃 零』
墨が紙に吸い込まれ、淡い光が一瞬だけ滲む。
その瞬間、世界のどこかで小さな鈴の音が鳴った。
ちりん――。
それは、名を呼ぶような音だった。




