第十七話 遺された名 ― 中半 ―
――闇の中、雨音が消えた。
目を開けると、そこは“どこでもない場所”だった。
上下も距離もなく、ただ墨を流したような暗闇が広がっている。
立っているのか、浮かんでいるのかも分からない。
黒乃零は筆を握り締めた。
その先から、淡い光が零れる。
光は空間をゆっくり照らし出し、やがて幾つもの“墓碑”のようなものを浮かび上がらせた。
――その全てに、同じ名が刻まれていた。
『黒乃零』
『黒乃零』
『黒乃零』
零の瞳が細められる。
「……これは。」
声が、闇の奥から返ってきた。
『ようこそ、黒乃零。ここは“名の記録庫”。名を奪われた者たちの終着点だ。』
姿を現したのは、真神一ノ介だった。
彼は黒衣をまとい、背後に無数の紙片を漂わせている。
それぞれの紙には、何百という“名前”が書かれていた。
「ここが、お前の術の中か。」
真神は微笑む。
「“術”などという単純なものではない。これは“名の理”そのものだ。誰もが生まれた時に与えられ、死ぬ時に消える。その間の記録を、私はここに集めている。」
零は静かに問う。
「何のために。」
「存在を繋ぐためだよ。」
真神は手を広げた。
「名は“魂の器”だ。器が壊れぬ限り、魂は死なない。私はそれを知った。だから、名を奪い、蓄える。名を継げば、私は永遠に生き続ける。」
零の目に冷たい光が宿る。
「それは“永遠”じゃない。他人の生を食らい続けるだけの、呪いだ。」
真神の笑みが深まった。
「では聞こう。黒乃零。お前は“誰”からその名を継いだ?」
零は何も答えなかった。
沈黙の中、墓碑の一つが崩れ、そこから“声”が響いた。
『……あなた、まだ名乗っているのね。』
振り向くと、そこにいたのは――
一人の青年だった。
零と同じ顔、同じ瞳。
けれど、微笑みの奥に、冷たい諦めがあった。
「……誰だ。」
「黒乃零だよ。――“前の”な。」
零が息を呑む。
「……やはり、継承された名。」
真神が愉快そうに手を叩いた。
「そうだ。お前はこの男の“上書き”。前の黒乃零の記録はすでに消え、お前が“黒乃零”として存在している。だが、魂は未だここに囚われているのだ。」
青年――かつての“零”が、ゆっくりと近づく。
「俺は、祈りを失った。だから名を継ぐ資格を失った。……そして、お前が生まれた。」
零はその瞳を真っ直ぐ見つめる。
「俺はお前じゃない。お前の祈りを引き継いだ者だ。」
「祈り、か……。なら、お前は俺を救えるか?」
零は答えず、筆を構えた。
真神が手をかざす。
「名の奪取開始。」
地面が崩れ、無数の“名前”が風のように舞い上がる。
それらが零の体にまとわりつき、皮膚に焼き付こうとする。
『黒乃零』『黒乃零』『黒乃零』――
クロの声が響いた。
「零! 聞こえる!? しっかりして!」
遠く、現実の声。
零の意識がわずかに戻る。
「……クロ……?」
「あたしは、あんたの“名前の証人”だよ!忘れないで――“黒乃零”は、あたしの主の名前!」
その言葉に、闇が揺らいだ。
真神が舌打ちする。
「外界との繋がりを保っているか……!だが、無駄だ。名を定着させれば、いずれ消える!」
零は微かに笑った。
「名を定着させる……? なら、その名が“動き続ける”なら、どうなる?」
真神が眉をひそめる。
「何を……?」
零は筆を走らせた。
墨が宙に広がり、複雑な円陣を描く。
「――式号、“流転ノ筆”!」
書き上げられた文字が浮かび上がる。
その全てが“黒乃零”の名。
だが一つとして同じ形がない。
崩し字、古字、流字――名が形を変え続けている。
真神が叫ぶ。
「何をしている!」
零の声が響いた。
「“名”は固定されるから奪われる。だが、名が“祈り”として動き続けるなら、誰にも奪えはしない!」
闇が裂けた。
過去の“零”たちが声を上げる。
『名は呪いじゃない……!』
『名は、生きるための印だ……!』
彼らの身体が光に変わり、零の背中に吸い込まれていく。
真神が後退する。
「やめろ……! それ以上は――」
零が筆を振り上げる。
「――返還式、“原名還し”!」
光が爆ぜた。
闇の世界を満たしていた無数の名前が空へと解き放たれる。
その一つひとつが、誰かの記憶へ還っていく。
真神が膝をつき、苦悶の声を上げた。
「……名が、消える……!?何故だ……! 私は、永遠のはず……!」
零は筆を下ろし、低く答えた。
「永遠とは、変わらぬことではない。祈りのように、“繰り返し呼ばれる”ことだ。お前は名を奪った。だが、呼ばれることを恐れた。――それが、お前の敗因だ。」
闇が崩れる。
零の身体が光に包まれ、現実の世界へと引き戻されていく。
最後に聞こえたのは、真神の掠れた声だった。
「黒乃零……その名は、いずれ……お前を……喰らう……」
そして、全てが消えた。
零が目を開けると、そこは寺の境内だった。
夜明けが近い。雨は止み、空に薄明かりが差している。
クロが泣きそうな声で駆け寄った。
「零っ! よかった……! 消えちゃうかと思った!」
零は静かにクロを撫でた。
「……ただいま。」
「おかえり……!」
彼の手の中には、焦げた筆が残っていた。
真神の使っていた“名を奪う筆”。
今は、ただの煤の棒になっている。
零はそれを墓碑の前に置いた。
「これで、“名の継承”は終わった。」
クロが首を傾げる。
「終わりって、どういう意味?」
「もう誰も、“黒乃零”を継がない。この名は、俺一人のものだ。」
クロの瞳に光が宿る。
「……そっか。じゃあ、あんたの“名前”は、もう奪われないんだね。」
零はゆっくり頷いた。
「名は呪いじゃない。それを祈りに変えられる限り――俺は俺だ。」




