第十七話 遺された名 ― 前半 ―
――雨が降っていた。
街の明かりを霞ませるように、細い雨が夜気を濡らしていた。
黒乃零は、傘も差さずに歩いていた。
濡れた髪が頬を滑り、白い指先を伝って滴が落ちる。
クロが肩の上で小さく身を震わせる。
「ねぇ、零。風邪引くよ。」
「……平気だ。」
零は視線を前に向けたまま答える。
行き先は、郊外にある古い寺院――“観月寺”。
昼過ぎ、住職から一本の電話があった。
『先生……墓が、勝手に刻まれましてな……。名が、黒乃零と出ておるんです。』
最初は、悪戯か誤刻だと思った。
だが、住職の震える声には、ただの偶然ではないものが滲んでいた。
夜更けの寺院は静まり返っていた。
境内に入ると、線香の匂いと湿った土の香りが混ざる。
本堂の明かりは落とされ、灯籠の中で淡い蝋燭がゆらゆらと揺れていた。
住職が出迎えた。
小柄で白髪の男。年の割に背筋が伸びている。
「黒乃先生……よう来てくださった。」
「依頼の件を見せていただけますか。」
「ええ……。こちらへ。」
雨音が遠ざかる。
裏手の墓地へ向かう小道を、提灯の灯がわずかに照らしていた。
クロが零の肩から飛び降りて、ぬかるみを避けながらついていく。
「なんか、嫌な気配するね。」
零は小さく頷いた。
「“名”が動いている。ただの墓ではないな。」
墓地の奥。
古びた石塔の列の一番奥に、一際新しい墓碑があった。
それは、黒光りする石に、深々と文字が刻まれていた。
『黒乃 零 之墓』
クロが息を呑んだ。
「……ほんとに、あんたの名前が……。」
零は手を伸ばし、指先で文字をなぞった。
石は冷たく、それでいて脈打つような感触があった。
「この刻印……“呪式刻字”だ。」
「つまり、呪いで刻まれてるってこと?」
「正確には、“名の定着術”だ。誰かの名を“この場所に固定する”。本来は、魂を鎮めるための術式だが……これは――逆だ。」
零の声が低くなる。
「“生きた者”の名を、墓に封じるための術だ。」
クロが毛を逆立てた。
「つまり……“生きたまま、死者として刻む”?」
零は頷く。
「そうだ。この墓が完成した時点で、俺の“記録”は削除されていくはずだ。」
「そんなの……! 本当にやられてるの!?」
「確認する。」
零は筆を取り出し、地面に小さな符を描く。
墨が雨に滲むが、筆跡は闇の中で光を放った。
「式号――反照符。」
符が淡く光り、墓碑の表面が波打つ。
そこに、誰かの手が浮かび上がった。
指が石の内側から這い出ようとしている。
クロが背を丸めた。
「零、やばいよ……!」
零は動かない。
「落ち着け。これは、俺の“影”じゃない。」
墓碑の表面が砕け、中から古びた巻物と一本の筆が転がり出た。
筆は黒檀でできており、根元には“黒乃”の文字が彫られていた。
クロが驚きの声を漏らす。
「……同じ名前だ。」
零は巻物を拾い上げ、封印を解いた。
中の紙は黄ばみ、墨は褪せている。
それでも、文字は確かにこう書かれていた。
『此の名を継ぐ者、黒乃零。我は祈りを継ぎ、命を繋ぐ。次代の零に名を渡す。』
クロの瞳が震える。
「……これ、どういう意味?」
零は静かに答えた。
「“黒乃零”という名は、継承されている。」
「……継承?」
「この名を名乗る者が代々存在し、呪いを引き受け、祈りを受け継いできた。そして今、その系譜の“終わり”として、この墓が刻まれた。」
住職が震える声で問う。
「先生……その“黒乃零”という名は……本当に先生のもので?」
零はしばらく沈黙した。
やがて、静かに口を開いた。
「俺は、自分でこの名を名乗った。誰かに与えられたわけではない。だが、――選ばされたのかもしれないな。」
クロが耳を立てた。
「どういうこと?」
「俺が“黒乃零”を名乗った日、過去の零がこの墓に刻まれた。そして、その瞬間、俺が次代として“上書き”されたんだ。」
住職が顔を青ざめさせる。
「では……先生は、既に――」
零は淡く笑う。
「まだ生きている。だが、誰かが“俺の存在を塗り替えよう”としているのは確かだ。」
クロが低く唸った。
「その誰かって……やっぱり、呪術師?」
零は巻物を閉じ、筆を手に取る。
「この筆、ただの道具じゃない。“名前を奪うための媒介”だ。そして、書いた者の名を“呪の根”に変える。」
遠くで雷が鳴った。
風が吹き、雨が強くなる。
クロが毛を逆立て、空を見上げた。
「……零、誰かが見てる。」
零も気づいていた。
墓地の奥、古い石灯籠の影に、傘を差した人影が立っている。
その影は、静かに笑った。
「探していたよ、黒乃零。」
低く、冷たい声。
男は黒い外套をまとい、顔の半分を覆っていた。
「真神一ノ介――名を奪う呪術師。」
男は軽く頭を下げた。
「ご名答。あなたの“名”は、長い間この手に渡るのを待っていたのですよ。」
クロが前に飛び出す。
「ふざけんな! 零の名前は誰にも渡さない!」
真神は穏やかに微笑んだ。
「黒猫……なるほど。あなたが“名の守り”か。だが、守る名など、脆いものです。――刻まれた瞬間から、すでに滅びが始まる。」
零が一歩前へ出た。
「“名を奪う”とは、人を消すことじゃない。魂の形を“書き換える”行為だ。お前の目的は何だ。」
真神は静かに笑った。
「永遠の存在だよ。“名”を継ぎ続けることで、人は死を超えられる。あなたの名も、そのための素材だ。」
雷鳴が轟いた。
クロが叫ぶ。
「零っ、逃げ――!」
だが、次の瞬間。
地面に描かれた符が光を放ち、零の足元が崩れ落ちた。
雨音が遠ざかる。
視界が闇に飲まれる。
最後に見えたのは、真神の口元に浮かんだ、薄い笑みだった。
「さぁ、“名”を捧げていただきましょう――黒乃零。」




