第十六話 壊死する街 ― 後半 ―
――夜が明けた。
街を包んでいた黒い膜は霧のように散り、高層ビルの隙間から朝日が差し込んでいた。
人の声が戻り、遠くで電車の音が響く。
黒乃零は崩れたトンネルの中に立っていた。
黒猫のクロが肩に乗り、尻尾を小さく揺らしている。
空気はまだ重い。
街のどこかに、呪いの残響が燻っているのがわかった。
『黒乃零……黒乃零……』
風が囁くように名前を呼ぶ。
それはかつて呪いの言葉だった。
だが、今は違って聞こえた。
「……呼んでいるな。」
クロが耳を立てた。
「誰が?」
零は空を見上げ、静かに答えた。
「――祈りが、だ。」
街中に貼られていた呪符は焼け焦げ、黒い灰となって風に舞っていた。
かつて“呪詛の連鎖”を生み出したその符は、いまや祈祷文のように静かに形を変えていた。
「不思議だね。」クロが言う。
「さっきまで“死”の匂いしかしなかったのに、今は、あたたかい。」
零は微かに微笑む。
「呪いと祈りの違いは、ほんの一文字分の心の向きだ。同じ“願い”でも、どこへ向けるかで全てが変わる。」
クロが首を傾げた。
「じゃあ、“黒乃零”って名前も……?」
零は筆を回しながら答えた。
「呪いの名ではない。“黒”は夜を抱く色、“零”は始まりの印。それをつなげば、“闇を越えて始まりを祈る者”。俺の名は最初から、“祈りの名”だった。」
クロはふっと笑った。
「……いい名前だね。」
そのとき、ビルの屋上から一枚の紙が舞い降りた。
焦げ跡の残る符だった。
そこに書かれていたのは、歪んだ筆跡の名――
『黒乃零』。
クロが眉を寄せる。
「また残ってる……まだ完全には消えてないんだ。」
零は符を拾い上げ、掌に載せた。
「呪いは“消す”ものじゃない。」
「え?」
「人が憎しみを抱く限り、呪いは生まれる。だが、それを否定しても意味がない。俺の仕事は、“消す”ことじゃない。――“抱く”ことだ。」
彼は符を指先で燃やしながら言った。
「呪いを抱いてこそ、人は祈れる。だから俺は、この名を捨てない。“黒乃零”という呪いの名を、祈りの名に変える。」
クロの目が潤んだ。
「……零。」
「俺の名が誰かを傷つけたなら、次はその名で、誰かを救えばいい。それだけの話だ。」
昼下がり。
街に平穏が戻り、人々の足音が響く。
零とクロは歩道橋の上に立ち、流れる車の列を見下ろしていた。
クロがぽつりと言う。
「ねぇ、偽のあんたが言ってたこと、覚えてる?“お前もいずれ、俺になる”って。」
零は頷いた。
「忘れないさ。だが、俺は“呪いを恐れない零”として生きる。呪いを知り、受け入れ、祈りに変える。それが俺の道だ。」
クロがしっぽで零の頬を叩く。
「……うん。それが、あたしの知ってる“黒乃零”だよ。」
夕暮れ。
黒猫呪術代行事務所。
扉の前に、新しい依頼人が立っていた。
疲れ切った顔の女性が、震える声で言う。
「“黒乃零”先生に……呪いを、祓ってほしくて。」
クロがちらりと零を見る。
零は静かに立ち上がり、微笑んだ。
「呪いを祓うことはできない。だが、背負うことならできる。」
「え……?」
「あなたがその呪いに押し潰されぬよう、俺が代わりに“形”を整えよう。」
女性の目に涙が浮かんだ。
零は穏やかに続けた。
「呪いを否定しない。それを“祈りの形”に変えるのが、俺の仕事です。」
クロが小さく笑い、鈴を鳴らす。
ちりん――。
事務所の中に、柔らかな光が満ちた。
机の上に置かれた名刺には、しっかりとした筆跡でこう刻まれていた。
黒猫呪術代行事務所
主宰 黒乃 零
夜、仕事を終えた零は窓際に立ち、静かに街の灯を見つめた。
クロが横に座る。
「ねぇ零。この街、もう呪われてないのかな?」
「いや。呪いは消えてなどいない。けれど、同じだけ“祈り”も残った。――それでいい。」
クロが小さくあくびをする。
「ふふ、ほんとに“壊死”から“再生”になったね。」
「人の心も同じだ。一度壊れても、祈りがあれば蘇る。」
クロが微笑んだ。
「じゃあ、“黒乃零”の名前は――」
零は淡く笑い、言葉を繋いだ。
「呪いを抱く者の、祈りの名だ。」
風が吹き抜け、鈴が鳴る。
その音は、静かで、確かだった。




