第十六話 壊死する街 ― 前半 ―
――夜の街が、静かに腐っていた。
ビルの隙間を吹き抜ける風は湿り気を帯び、
コンクリートの壁面を舐めるように這っていく。
街灯の光がちらつき、遠くで救急車のサイレンが鳴った。
その音を背に、黒乃零は煙草を踏み消す。
足元には白線で囲まれた死体の跡。
まだ乾ききらぬ血の匂いが、夜気に混じっていた。
「……また、“俺の名前”か。」
その呟きに、肩の上の黒猫が尻尾を振った。
「これで、五人目だね。」
クロの金の瞳が、現場に散らばる符紙を見つめる。
どれも古い呪術文字で焼け焦げており、中心には血で書かれた名があった。
“黒乃 零”。
零は無言でしゃがみ込み、指先で文字をなぞった。
符の血は生々しく、触れると微かに温もりが残っていた。
「死んだばかり、か……。」
クロが顔をしかめた。
「呪いの形跡、まだ残ってる。しかも、あんたの“式”に似てる。」
零の目がわずかに光を帯びた。
「式を模したか――それとも、“俺”か。」
翌朝。
黒猫呪術代行事務所。
曇天の光がブラインドの隙間から差し込む。
机の上には、依頼書の束。
“呪詛返し”“憑依解除”“記憶封印”――
どれも扱えば命を削る案件ばかりだ。
クロが書棚の上から言った。
「ねぇ零、今回の事件……普通の呪いじゃないよ。名前を口にしただけで死ぬなんて。」
零は黙ってコーヒーを注ぐ。
「“名を媒介とする呪い”だ。対象の名前を認識した瞬間、その名に宿った霊脈が呪主に直結する。つまり、名が“感染源”になってる。」
「感染型の呪い……。でも、それってあんたの式体系に近くない?」
零は目を閉じ、わずかに頷いた。
「……ああ。“同系統”だ。」
クロの声が低くなる。
「つまり、“誰かが”あんたの術を盗んだってこと?」
答えはなかった。
だが、沈黙がそのまま肯定だった。
午後。
事務所のドアが叩かれた。
「黒乃零さんですね?」
スーツ姿の男が立っていた。
バッジを見せる――警視庁・生活安全課。
「近頃続いている“呪死事件”について、少しお話を。」
零は淡々と頷いた。
「どうぞ。」
男は慎重に室内を見回す。
「被害者の共通点は、“黒乃零という人物の名を呟いて死亡している”ことです。あなたの名前ですよね?」
「そうです。」
「そして、死者の遺体の周囲からは、あなたが使う“式符”に酷似したものが……。」
クロが唸る。
「濡れ衣の匂いがぷんぷんするね。」
零は静かに言った。
「俺が使う符は、表に出ないはずだ。それが出回っているなら、“流出”したか、――“複製”された。」
刑事が顔を曇らせる。
「複製?」
「呪術には、“鏡式呪造”という禁術がある。対象の姿、記憶、そして術式を“写す”。ただし、写された存在は“本物よりも呪われている”。」
刑事は息を呑む。
「つまり、あなたの“コピー”が、誰かを呪っている……?」
零は微かに笑った。
「皮肉な話だ。俺の仕事は呪いを代行することだが、今回は“俺自身”が呪いを撒いているらしい。」
その夜。
零とクロは、事件のあった廃ビルへ向かった。
かつて印刷会社だった建物。
外壁は錆び、窓ガラスは割れている。
周囲には“立入禁止”の黄色いテープが張られていた。
クロが足元を嗅ぎながら言う。
「血と墨の匂いが混ざってる。まるで“書かれた死体”みたい。」
零は懐中電灯を灯し、暗闇の奥へと足を踏み入れた。
階段を上がるたび、古い印刷紙が靴の下でくしゃりと音を立てる。
最上階に着くと、壁一面に“呪符”が貼られていた。
その全てに、同じ名が記されている。
黒乃零。
そしてその中央には――鏡。
古びた姿見が一枚、天井から鎖で吊るされていた。
鏡の表面にはひびが走り、その奥で何かが“こちらを覗いている”。
クロが低く唸った。
「……零、あれ。」
零は懐から筆を抜き、符を構える。
「出てこい。“俺の影”。」
鏡が音を立てて揺れた。
黒い液体が滲み、床に滴る。
液体は形を変え、やがて人の輪郭を描く。
立ち上がったのは――
黒乃零と同じ顔をした男だった。
同じ髪、同じ瞳、同じ声。
だが、そこに宿る光は違っていた。
血のように赤い。
「……ようやく来たか、零。」
零は筆を握り締める。
「誰だ。」
男は微笑んだ。
「誰でもないさ。“お前”だよ。」
クロが叫ぶ。
「零、下がって! あれ、完全に“写し”だ!」
偽零は歩み寄り、ゆっくりと手を差し伸べた。
「俺は“黒乃零”の呪いそのもの。お前が代行してきた“怨念”の総体だ。忘れたか? お前は人の恨みを食って生きてる。」
零の瞳が細くなる。
「――違う。俺は祈りを繋ぐ者だ。」
偽零の唇が、血を滲ませて笑った。
「祈り? 笑わせるな。呪いと祈りの違いが、まだわからないのか。」
次の瞬間、鏡の奥から無数の手が伸びた。
黒い影が渦を巻き、室内の空気を奪う。
クロが叫ぶ。
「零っ!」
零が詠唱する。
「――結印、式起動。“封殺陣・黒鴉”!」
地面から黒い鴉の群れが舞い上がり、影の手を切り裂いた。
だが、偽零は微動だにせず笑っていた。
「無駄だ。俺は“お前の術”そのものだ。お前が呪う限り、俺は死なない。」
クロの目が見開かれる。
「じゃあ……呪術そのものが、あんたの中にあるってこと……?」
偽零は頷いた。
「そう。“黒乃零”という名が存在する限り、呪いはこの街で増殖し続ける。」
零が静かに息を吸う。
「――なら、その名ごと消すまでだ。」
偽零が笑う。
「できるものなら、やってみろ。“俺”。」
そして、世界が歪んだ。
鏡の奥の闇が広がり、街全体が呪いの膜に覆われていく。
クロが息を詰めた。
「零……このままじゃ、この街全部が呪いに飲まれる!」
零は冷静に筆を構える。
「わかっている。これは“壊死”だ。呪いが血管のように街を蝕んでいる。」
その声の中に、確かな決意の響きがあった。
――呪いの本質を、今こそ解き明かす時だ。




