外伝3 姦姦蛇螺 ― 後半 ―
夜が落ちる。
月が雲に隠れ、村は闇に沈んでいた。
風は止まり、虫の声も消えている。
まるで、世界そのものが息を潜めていた。
黒乃零は、山道をゆっくりと登っていた。
肩の上には、黒猫のクロ。
その金色の瞳が、暗闇の中にわずかな光を見つけている。
「零……もう、近い。」
「わかっている。」
声が落ち着いている。
だが、その指先は微かに震えていた。
森の奥に、かつての封印の地――“六木の環”が見えた。
六本の大木はすでに半分が倒れ、中央の木箱は割れ、中から黒い液体が滲み出ていた。
それは血ではなかった。
それは――憎しみの形をした記憶だった。
クロの背中の毛が逆立つ。
「……誰か、いる。」
闇の奥で、白い影が立っていた。
それは人の形をしている。
だが、顔が無かった。
代わりに、腹のあたりに赤い口が開き、そこからゆっくりと声が漏れた。
『――いまだ……終わらぬ……』
零が筆を構えた。
「“姦姦蛇螺”。」
その瞬間、地面が裂け、黒い蛇の体が森の底から現れた。
巨大な体。
幾重にも重なる女の腕。
その顔は、かつて巫女だった女のもの。
目からは涙が流れているのに、口は笑っていた。
『裏切りの村……裏切りの血……皆、喰う。』
クロが叫ぶ。
「零! 結界!」
零は符を地に叩きつけ、詠唱する。
「六の環よ、祈りの座に還れ――“六環結封”!」
光が地を走る。
倒れた木々がひとりでに立ち上がり、縄が音もなく結び直される。
だが、蛇は笑った。
『遅イ……遅イ……人は何度でもワレを呼ブ……』
巨体が結界を打ち破り、木々が砕けた。
クロが飛び出す。
「零! 時間を稼ぐ!」
「危険だ、下がれ!」
「平気!」
黒猫の姿が影のように跳ね、蛇の顔に爪を立てた。
その瞬間、蛇の瞳が揺らぐ。
『……その目……覚えている……』
クロの身体が硬直する。
「な、なに……これ……!」
『ワレの中に、お前ノ欠片がある……“巫女”の魂ハ、まだここニ……』
蛇の口が大きく開いた。
クロの身体が吸い寄せられるように、光を放つ。
「零っ!」
零は迷わず手を伸ばした。
「クロ、離れるな!」
しかしその瞬間、蛇の影が零の足元を飲み込み、二人は暗闇に引きずり込まれた。
そこは、血のように赤い世界だった。
空も地も存在せず、ただ浮かぶような空間。
無数の声が渦巻いている。
『痛い……寒い……裏切らないで……』
『腕を返して……声を返して……命を返して……』
クロが震える声で言った。
「これ、巫女の……声……全部……!」
零は静かに目を閉じた。
「そうだ。これは“怨念”じゃない。死ぬ瞬間の祈りが形を失って残ったものだ。」
「祈り……?」
「“誰かを守りたい”という願いが、裏切りの痛みで歪んだ。だから“姦姦蛇螺”は、神でも怪物でもない。――祈りの屍だ。」
クロが息を呑む。
「じゃあ……救える?」
零は筆を構え、淡く微笑んだ。
「祈りを、祈りに還す。それが俺たちの仕事だ。」
零の周囲に光の陣が浮かぶ。
筆先が赤い闇に線を刻むたび、声が静まっていく。
「六封・魂還の式――“反転祈”。願いの形を、呪いから祈りへ戻す。」
クロが隣で瞳を閉じた。
「お願い、もう憎まないで……」
光が広がる。
赤い空が淡い金色に変わっていく。
その中に、巫女の姿が現れた。
血の跡も、裂けた腕もなく、ただ静かに微笑む少女。
『……あなた、見てくれたのね。』
クロが涙をこぼした。
「うん。あなたの痛みも、祈りも、ちゃんと見た。」
『ありがとう。これで……眠れる……。』
巫女の身体が光に包まれ、蛇の影がゆっくりと溶けていく。
『最後に……お願い。この村を……どうか……護って……』
零が筆を置き、「――約束しよう。」と静かに言った。
光が弾けた。
次に目を開けたとき、二人は森の中にいた。
倒れていた木々は再び根を張り、地面に刻まれた封印は新しい光を宿していた。
風が優しく吹く。
森は静かだった。
クロが零を見上げる。
「終わった?」
零は頷いた。
「“姦姦蛇螺”はもういない。祈りに還った。」
クロが小さく笑った。
「なら、よかった。」
零は森の奥を振り返った。
「……巫女は最後まで村を憎んでいなかった。それでも、自分の死を“形にされた”ことが許せなかった。だから俺たちは、“思い出すため”に祈った。」
クロが頷く。
「忘れられるのが一番つらいんだね。」
「そうだ。だから記憶は祈りだ。俺たちは、それを繋ぐ。」
翌朝。
村の空気は穏やかだった。
鳥の声が戻り、川が静かに流れている。
宿の女将の墓に、零は小さな花を供えた。
クロはその隣で鈴を鳴らす。
ちりん――。
零が静かに呟いた。
「――姦姦蛇螺。お前の祈り、確かに届いた。」
クロが目を細めた。
「零。あたしたち、また少し“呪い”を救えたね。」
零は微笑んだ。
「呪いを救うなんて、おかしな言葉だが……悪くない。」
クロはくすりと笑う。
「ねぇ、次の休息はもう少し明るい場所がいいな。」
「俺もそう思う。」
二人は背を向けて歩き出す。
木々の間から、光が差し込んでいた。
その光の中で、風が微かに歌う。
『……ありがとう……』
クロが立ち止まり、振り返る。
けれど、もう誰もいなかった。
山を下りる頃、零がふと呟いた。
「クロ。」
「ん?」
「この世に、神も呪いも同じものがある。それを決めるのは、人の心だ。」
クロは笑って答えた。
「うん。あたしたちは、“祈る方”でいたいね。」
零は小さく頷いた。
風が頬を撫でた。
春の終わりを告げるように、山桜の花びらがひとひら、彼らの足元に舞い落ちた。




