外伝3 姦姦蛇螺 ― 前半 ―
山の奥には、言葉を飲み込む風が吹いていた。
春も過ぎ、山桜が散り始めた頃。
黒乃零とクロは、仕事続きの疲れを癒やすため、再び田舎の宿へと足を伸ばしていた。
木造の二階建ての古旅館。
縁側からは小川のせせらぎが聞こえ、夜には蛙が鳴く。
見た目は平和で、時の流れが緩やかだった。
だが――クロは、宿に着いた瞬間から尻尾を膨らませていた。
「……零。ここ、嫌な気配がする。」
零は荷物を降ろしながら、静かに辺りを見渡した。
「何が見える。」
「“視線”。でも、人間じゃない。どこかから、じっと見られてる感じ。」
零は頷く。
「この村の名は“蛇音”。昔から“神喰いの祟り”が絶えない場所だ。」
「また呪いの匂い?」
「いや――“祈りの形が歪んだ”匂いだ。」
夜。
宿の女将が、湯呑を差し出しながら言った。
「ようこそいらっしゃいました。この辺りは静かでしょ? ただ……あまり夜遅くに外へ出ないでくださいね。」
零が目を細めた。
「何か、あるんですか。」
女将は一瞬、言葉を選ぶように黙ったあと、
「“蛇音さま”に呼ばれると、帰れなくなるんです」と囁いた。
クロが首を傾げる。
「蛇音さま?」
「はい。“姦姦蛇螺”とも呼ばれてます。この村では、あの方の名を口にしちゃいけないって。」
クロはその音を聞いた瞬間、毛を逆立てた。
「その名前……嫌な響き。」
零が静かに頷いた。
「“姦”は女三つ、“蛇螺”は螺旋の蛇。古くから“人が産み出した神”を指す言葉だ。」
女将は顔を曇らせた。
「神だなんて……とんでもない。あれは“祟り”です。」
翌朝。
山の霧は濃く、村は薄灰色に沈んでいた。
零とクロは、川沿いを散歩していた。
鳥の声すら遠く、風が音を吸い込んでいく。
その時、背後から声がした。
「お兄さんたち、よそから来たの?」
振り返ると、小さな少年が立っていた。
首に赤い紐を巻き、掌には削れた木の護符を握っている。
「うん。少し休みにね。」
零が笑顔を見せると、少年は真っ直ぐな目で言った。
「なら、山には行っちゃだめだよ。」
「どうして?」とクロが尋ねる。
少年は小声で続けた。
「昨日、友だちが行ったの。“姦姦蛇螺さま”に呼ばれたんだ。」
クロの耳がぴくりと動いた。
「呼ばれた?」
「うん。夜にね、誰かの声がしたって。“ここへおいで、腕を貸して”って……。」
零がわずかに眉を寄せた。
「その子は、今どこに?」
少年は首を振った。
「朝から、帰ってこない。」
その夜。
零とクロは旅館の灯を落とし、月明かりだけを頼りに森の入口へ向かった。
風が止み、虫の声さえ消える。
クロの瞳に、闇の中で淡い光が見えた。
「……零、あれ。」
遠くに、六本の木が円を描くように立っている。
その根元を繋ぐように、古びた縄が張られ、中央には朽ちた木箱と割れた壺。
零が低く呟いた。
「――封印だ。」
クロが身を強張らせる。
「どう見ても、もう壊れてる。」
「おそらく誰かが触った。……封印の周期が絶たれている。」
その時、木々の間から風が吹いた。
冷たいのに、どこか湿った風。
そして――声がした。
『……かえせ……』
クロの毛が逆立った。
「今の、聞こえた!?」
零は頷いた。
「聞こえた。“姦姦蛇螺”の呼気だ。」
森の奥で、何かが這う音がした。
ズズ……ズル……。
零は符を抜き放つ。
「クロ、下がれ。」
「零……来る!」
暗闇の中、木の間から黒い影が這い出た。
蛇の形をしている。
だが、その顔には――人の目と口。
歯の代わりに舌が幾重にも伸び、肉を求めるように空気を舐めていた。
『……にんげん……また……裏切るのか……』
零の声が低く響く。
「裏切ったのはお前じゃない。お前を“捧げた”人間だ。」
蛇が嘲笑うように顔を歪めた。
『ならば……また喰おう。この地を歩く者、すべて……。』
その瞬間、地面が揺れた。
木々が軋み、縄が切れ、封印の残滓が弾け飛ぶ。
クロが叫ぶ。
「零、下がって!」
黒い影が、二人を包み込んだ。




