第十五話 黒猫夢譚 ― 後半 ―
朝の光が、窓のカーテン越しに淡く滲んでいた。
クロはゆっくりと目を開けた。
零の膝の上で眠っていたのだと気づくと、頬がほんのり熱くなった。
「……うそ。寝ちゃってた。」
零が静かに本を閉じる。
「二時間ほどだ。疲れていたんだろう。」
クロは首を傾げた。
「……夢、見なかった。」
「それが自然だ。」
零の声は柔らかかった。
「夢は、お前の魂が痛みを覚えているときに見るものだ。痛みが癒えれば、眠りは静かになる。」
クロは一瞬だけ黙り、
「……なんか寂しいね」と呟いた。
零は小さく笑った。
「寂しさも、命の証だ。」
午前の空気が透き通っていた。
黒猫呪術代行事務所の窓からは、遠くの街並みと、春を告げる光が見える。
クロは窓際に座り、手のひらに光をすくうようにして言った。
「零、あたし、夢の中で“昔のあたし”に会った気がする。でも、もう顔も声も思い出せないの。」
零は机に寄りかかりながら頷いた。
「それでいい。思い出す必要はない。今ここにいる“クロ”がすべてだ。」
クロは少し笑って、
「……冷たい言い方に聞こえるけど、あったかいね、それ。」
零が目を細めた。
「言葉は、受け取る者の心で温度が変わる。」
「へぇ……哲学者みたい。」
「呪術師は理屈を知らなければ死ぬ。理屈を超えた時だけ、呪いは祈りになる。」
「なにそれ、かっこつけ。」
「お前が言うな。」
そんな軽口を交わしながら、二人の間に流れる時間は、穏やかに続いていた。
昼過ぎ。
零は棚の上から古い箱を取り出した。
金属の蓋が少し錆びている。
「クロ、これを覚えているか?」
クロが覗き込むと、中には小さな鈴が入っていた。
「……これ、あたしが最初に持ってたやつだ!」
零は頷いた。
「お前が式神として目覚めた夜、その鈴が鳴った。“まだ生きてる”と、確かに聞こえた。」
クロは鈴を手に取って、そっと鳴らした。
澄んだ音が、静かに部屋を包む。
「ねぇ零。もしあの時、あたしを呼ばなかったら……あたし、どうなってたと思う?」
「……誰にも見えない場所で、ずっと彷徨っていた。」
クロは目を伏せ、
「ありがとう」と小さく呟いた。
零は淡く微笑んだ。
「礼なら、あの時の“お前”に言え。死の間際で願うほどの強さがあったから、今がある。」
クロは笑った。
「そっか……“生きたい”って気持ちは、やっぱり強いね。」
その日の夕方、
零は窓辺でお茶を淹れていた。
クロが湯気の立つカップを見つめながら、
「ねぇ零、あたしって“人間”に戻りたいのかな」
と呟いた。
零は動きを止める。
「なぜそう思う。」
「夢を見てから、ずっと考えてたの。“人間だった頃のあたし”って、確かに今のあたしとは違うけど、でも、どっちも“生きてる”って思うの。」
零はカップをクロの前に置き、静かに座った。
「生きる形に優劣はない。肉体があるかないかは、本質じゃない。心が呼吸していれば、それは生だ。」
クロはその言葉を聞いて、目を細めながらカップを抱いた。
「……じゃあ、あたし、ちゃんと生きてるんだね。」
「当たり前だ。」
零の声は低く、確かな響きを持っていた。
その響きが、クロの心に深く染み込んでいった。
夜。
事務所の灯りが消えたあとも、クロは眠らずに月を見ていた。
その横顔を見つめながら、零は静かに筆を走らせていた。
書いているのは、“式神との契約”の記録。
『黒猫クロ――守護の式。主に忠誠を誓い、その魂と祈りを共有す。願いはひとつ。“共に生きる”こと。』
筆を置いた零は、
「クロ」と呼んだ。
クロが耳をぴくりと動かす。
「ん?」
「お前は、俺の呪術の中で唯一、“祈り”を持つ式だ。だからこそ、これだけは忘れるな。」
「なに?」
「祈りは、誰かを縛るためじゃなく、誰かと共にあるためにある。」
クロはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「うん。……あたし、ずっとそれを探してたのかも。」
零が目を細めた。
「見つかったか?」
クロは笑った。
「今、見つけた。」
深夜。
零は机に伏したクロをそっと抱き上げ、窓辺に運んだ。
外は満月。
白い光が、黒い毛並みに淡く反射している。
零が小さく呟いた。
「……おかえり、クロ。」
クロの目がうっすらと開き、眠たそうに微笑んだ。
「ただいま、零。」
零は優しくその額を撫でた。
その瞬間、彼女の胸元の鈴がひとりでに鳴った。
ちりん――。
音は、まるで祈りの余韻のように長く続き、やがて夜の闇に溶けていった。
翌朝。
クロは、夢の中で“白い花”を見た。
風に揺れ、光に透け、その花びらがどこかで聞いた“ありがとう”の声を運んでいた。
彼女は微笑み、目を開けた。
隣には、温かいお茶と、手書きの短い紙切れ。
『夢は祈りの形。お前の笑顔が、その証。』
――零
クロはその紙を大切に胸にしまい、事務所の扉を開けた。
今日も、依頼の電話が鳴っている。
日常は続く。
けれど、心の奥では確かに、“何かが癒えた音”が響いていた。
窓辺の鈴が、微かに鳴った。
ちりん――。
それは、夢の向こうで消えた少女が、まだどこかで笑っている証だった。




