第十五話 黒猫夢譚 ― 中半 ―
夢の中の空は、白く、音がなかった。
風も匂いも、時間の流れすらも存在しない。
ただ、灰色の病室だけがぽつりと浮かんでいた。
ベッドの上には、長い黒髪の少女が横たわっていた。
白いシーツの上に、彼女の細い手がのぞいている。
その指先は透き通り、ゆっくりと消えかけていた。
零は足音を立てずに近づく。
少女の顔を見た瞬間、彼の瞳がかすかに揺れた。
「……やはり、クロだな。」
その声に、少女のまぶたが震えた。
ゆっくりと開いた瞳――
現実のクロと同じ、深い金色。
少女は首を傾け、静かに微笑んだ。
「……あなたが、黒乃零さん?」
零は頷く。
「そうだ。」
少女の声はかすれていた。
それでも、どこか懐かしさを含んでいる。
「不思議ね。夢の中で、こうして“誰かに会う”なんて。」
零はベッドの傍らに立ち、落ち着いた声で答えた。
「これは夢ではない。お前の魂が見る“記憶の残響”だ。――そして俺は、お前を迎えに来た。」
少女は小さく息を呑んだ。
「迎えに……?」
零は頷く。
「現実に戻るためだ。お前の魂の半分は、まだこの場所に縛られている。」
少女は、窓の外を見た。
薄いカーテンの向こうには、曖昧な光がゆらめいている。
「ねぇ……ここ、あたしの病室だったところよ。でも、少し違うの。本当はもう、全部焼けちゃったはずなのに。」
零が静かに答える。
「魂が作り出した“再現”。記憶の形に従って、世界を組み上げているんだ。」
少女は苦笑した。
「じゃあ……あたしは“作り物”?」
零は首を横に振った。
「違う。お前は本物だ。心の一部として、今もクロの中で生きている。」
少女は黙って零を見つめた。
その瞳には、なぜか涙が滲んでいた。
「……どうして、そんな風に言えるの?」
「俺が、そう呼び戻したからだ。」
零は低い声で続けた。
「死の境からお前を呼び、魂を繋ぎ止めた。――“守りたい”という祈りに応えたんだ。」
少女は息を飲み、胸元に手を当てた。
「……あの時、確かに願ったの。“もう一度、あの子を守りたい”って。でもね……あたしは、怖かったの。」
「怖かった?」
「うん。死ぬって、静かすぎて……何も感じなくなるのが、怖かった。だから、祈ったの。“せめて、あの子のそばで声を出せますように”って。」
零のまなざしが、ほんのわずかに柔らかくなる。
「だからお前は、声を持つ式神として戻った。」
少女は目を伏せ、「……あの子って、誰?」と小さく尋ねた。
零は静かに言った。
「“お前自身”だ。お前が守りたかったのは、自分。かつての弱くて孤独だった自分自身だ。」
少女の瞳が揺れた。
「……あたしが、あたしを守りたかった?」
「そうだ。だから今のお前――“クロ”が存在している。祈りは自己の延長に過ぎない。誰かを救うことは、自分を救うことでもある。」
病室の時計が、静かに止まった。
少女はゆっくりとシーツを握りしめ、かすかに微笑んだ。
「……ねぇ、零さん。今の“クロ”って、幸せ?」
零は一瞬だけ黙った。
そして、短く答えた。
「幸せだ。文句も多いが、よく笑う。」
少女は目を細めた。
「よかった……あの子が笑ってるなら、それでいい。」
零は、少女のその言葉に小さく息を吸った。
その声音は、まるで別れを覚悟した人間のものだった。
「……零さん。」
「なんだ。」
「お願いがあるの。あたしが完全に消えても、“クロ”を大切にしてあげて。あの子は――」
「――“お前”だ。」
零が遮るように言った。
声は穏やかだったが、どこか切実だった。
少女は驚き、零を見上げる。
「“お前”はひとつの存在だ。二つに分かれてなんかいない。過去も今も、同じ“クロ”だ。だから、俺はお前を大切にしてきたし、これからも守る。」
少女の瞳が涙で揺れた。
「……そんな風に言われたら、消えたくなくなっちゃう。」
零は一歩近づき、彼女の枕元に手を置いた。
「生きたいと思え。たとえ式神であっても、“生”は続く。お前が笑う限り、それは命だ。」
少女の身体が、淡く光り始める。
床や壁が溶けるように消え、夢の世界がゆっくりと崩壊していく。
「……もう、行かなくちゃ。」
「行け。お前の場所に帰れ。」
少女は最後に小さく微笑んだ。
「ねぇ零さん。あたし、あの時、猫のくろを抱いて言ったの。“次は、守る番ね”って。その約束、今も続いてるんだね。」
零は頷く。
「約束は、生きてる。」
少女の唇がわずかに動いた。
「……ありがとう。」
光が弾けた。
少女の姿が消えると同時に、零の意識は現実へと引き戻された。
「――零っ!」
聞き慣れた声。
目を開けると、事務所の天井と、心配そうに覗き込むクロの顔があった。
「戻った! もう、二時間も寝たままだったんだよ!」
零は上体を起こし、息を整える。
「……お前の中にいた“もう一人”は、消えた。」
クロは一瞬、寂しそうに微笑んだ。
「うん。でも、不思議。今も心の中で、誰かが“ありがとう”って言ってる。」
零は穏やかに笑った。
「それでいい。それはお前の声でもあり、あの子の声でもある。」
クロが頷き、零の手に額を擦り寄せた。
「……ねぇ零。あたし、人間だった頃の夢、もう怖くないや。」
「そうか。」
「うん。だって、今はあんたのそばにいるから。」
零は目を細め、静かに頭を撫でた。
「――それで充分だ。」
窓の外では、夜の風が優しく吹いていた。
遠くの街灯が揺れ、その光がまるで“夢の残響”のように部屋を照らす。
クロは小さく丸くなり、
零の膝の上で眠りに落ちた。
零は筆を手に取り、
机の端の紙に一行だけ記した。
『夢は記憶の祈り。それが続く限り、命は消えない。』
筆を置き、零は夜空を見上げた。
月が、柔らかく光っていた。




