第十五話 黒猫夢譚 ― 前半 ―
――夜の帳が落ちるころ、クロは夢を見ていた。
見慣れない街。
石畳が濡れ、灯りのない通りをひとりの少女が歩いている。
雨のような、墨のような黒が降っていた。
少女は、まるで自分の名を忘れたような顔をしていた。
誰かを探している。
けれど、その誰かの顔も思い出せない。
ただ一つ、心に残っていたのは――
あの人の声。
『……もう、泣かなくていい。』
その声を聞いた瞬間、
クロは夢の中で目を覚ました。
朝の光が事務所の窓から差し込む。
黒乃零は、机に向かって古い符を整理していた。
静かな筆音だけが響く。
クロは窓辺で丸くなりながら、小さく呟いた。
「……変な夢、見ちゃった。」
零が顔を上げ、静かな声で尋ねる。
「どんな夢だ。」
「誰かが、あたしを呼んでた。声は聞こえないのに、胸の奥で響く感じ。」
零は筆を置き、まっすぐクロを見る。
「それは、ただの夢じゃない。お前は式神だ。夢を見るというのは、“自我の底”が揺れている証拠だ。」
クロの尻尾がぴくりと動く。
「……じゃあ、“人間だった頃”のあたしが呼んでるの?」
「あるいは、誰かがその記憶を引きずり出している。」
零の声は静かだが、確信がこもっていた。
その日の夕方。
事務所の電話が鳴る。
零が受話器を取る。
「黒猫呪術代行事務所だ。……ああ、はい。症状を詳しく。」
短い沈黙ののち、低く息を吐いた。
「場所は?」
電話を置いた零が、クロを振り返る。
「依頼だ。郊外の廃病院。――“猫の声が夜通し聞こえる”らしい。」
クロが首を傾げた。
「猫の声? それって……もしかしてあたしに関係ある?」
零は即答した。
「おそらくな。」
夜。
二人は、街外れの廃病院へ向かった。
鉄柵は錆び、風が吹くたびに軋んだ音を立てる。
中は暗く、崩れた壁に白い花が供えられていた。
クロが零の肩に乗り、低く囁く。
「ここ……空気が濡れてる。冷たくて、息が詰まる。」
零は淡々と応える。
「それは“残響”だ。魂の跡が、空気に染みついている。」
「魂……猫の?」
「まだ分からない。だが――お前に似た波動を感じる。」
奥の廊下で、微かな声がした。
「……にゃぁ……」
クロの瞳が大きくなる。
「それ……あたしの声。」
零は眉を寄せた。
「どういう意味だ。」
「わかるの。あの鳴き方……あたしが“人間だった頃”に飼ってた猫の声。」
「お前が、猫を?」
「うん。名前は“くろ”。あたしと同じ。」
零は小さく息を吐いた。
「なるほど。魂の輪が閉じていない。」
クロの脳裏に、断片的な記憶がよみがえる。
病室の窓辺。
点滴の音。
枕元で眠る黒猫。
「くろ……また来てくれたんだね。」
「今度は、あたしがあなたを守る番だから。」
その瞬間、光が弾け、世界が裏返った。
クロは跳ね起きた。
「……あれは、記憶だ。」
零は静かに頷く。
「思い出したか。」
「……うん。あたし、前は人間だった。病気で……死んだんだ。でも、死ぬ直前に願ったの。“もう一度、あの子を守りたい”って。」
零は目を細め、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「そしてその祈りが、呪いに変わった。」
クロが顔を上げる。
「呪い……?」
「強い想いは、形を変えて現世に残る。お前は“守りたい”という想いで死に、その魂が“猫の姿”で戻ってきた。――俺が、その魂を呼び戻した。」
クロの瞳が揺れた。
「じゃあ、あたし……最初から零のそばに?」
「そうだ。」
零の声は冷静だったが、その奥には確かな情があった。
「お前は式神であり、俺の“護り”。けれどそれ以上に――俺が救われた存在だ。」
クロが俯く。
「……あたし、ずっと“守る側”だと思ってた。」
「間違いじゃない。俺たちは、互いを守ってる。それでいい。」
けれど、クロの瞳にはまだ不安の色があった。
「ねぇ零。夢の中のあたし、なんだかおかしかった。あたしの記憶を、誰かが“覗いてる”みたいだった。」
零の声が低くなる。
「夢の奥に、もうひとつの層がある。お前の魂の残滓が、まだ完全に癒えていない。」
「……残滓?」
「人として死んだ時の“未練”。それが夢を形にしている。放っておけば、魂が二つに割れる。」
クロが息を詰めた。
「……そしたら、あたし、どうなるの?」
「片方は夢の中に残り、もう片方は式神として存在し続ける。どちらかが欠ければ、消滅する。」
沈黙ののち、零が言葉を継ぐ。
「……だが、俺が必ず連れ戻す。」
クロが小さく笑った。
「ほんとに、無茶する人。」
零もわずかに口元を緩めた。
「お前が戻らなければ、誰が俺の淹れる茶を飲む。」
「……もう、そういうとこずるいんだから。」
夜。
零は符を円形に並べ、床に結界を描いた。
灯を落とし、淡い青の光が揺れる。
「準備はいいか。」
「うん。」
「これから、お前の夢の中へ入る。“もう一人のお前”と対面しなければならない。」
クロが目を伏せる。
「……もし、あの子があたしを拒んだら?」
「そのときは、言ってやる。“戻ってこい、クロ”。それで充分だ。」
クロの瞳が揺れた。
「……うん。信じてる。」
零が短く頷き、符を燃やす。
青白い炎が空気を包み、世界が音を失った。
次に零が目を開けたとき、そこは――クロが死んだ病室だった。
そして、ベッドの上には。
白いシーツに包まれた、一人の少女。
“クロと同じ瞳”をした、もう一人のクロがいた。




