第十二話 黒い願い ― 前半 ―
――雨の夜だった。
街の灯りが、雨粒の向こうで滲んでいる。
黒乃零は傘も差さず、静かに歩いていた。
肩に乗ったクロが、しっぽを丸めながら不満げに言う。
「ねぇ零、濡れてるんだけど」
「お前は式神だ。少しくらいの水気で文句を言うな」
「そういう問題じゃないんだよ。猫の毛はね、水に弱いの」
零は薄く笑った。
「……人も同じだ。冷たい雨に打たれると、心まで重くなる」
通り過ぎる看板の灯りが、ゆらゆらと歪んで見えた。
ビルの壁面には、無数の電子広告が並び、どれも同じフレーズを繰り返している。
『WISH──あなたの願い、叶えます』
クロが首を傾げた。
「最近やたら見るよね、それ。“祈りSNS”とか言って、スマホで願いを投稿するやつでしょ?」
零が頷く。
「人の願いを可視化し、共有するアプリ。表向きは善意の循環だが……裏がある」
クロが毛を逆立てた。
「零の“裏がある”は当たるから怖いんだよね」
「人が集まる場所には、必ず“呪いの原型”が生まれる。祈りは共鳴しやすい。だが共鳴は、やがて感染になる」
翌朝。
黒猫呪術代行事務所の扉をノックする音がした。
入ってきたのは、若い男。
スーツ姿で、目の下に深い隈を作っている。
「……黒乃さんですよね」
「そうだ。依頼か」
男は名刺を差し出した。
「天城 透──『WISH』運営部です」
零の目が細くなる。
「ずいぶんと直接的な来訪だな」
「ええ、もう……限界なんです」
男は椅子に座り、深く息を吐いた。
「ここ最近、アプリに投稿された“願い”の中で、異常な現象が起きているんです。……願いが“叶いすぎている”」
クロが目を丸くする。
「叶いすぎてる? いいことじゃないの?」
「いいこと……のはずでした」
男が震える手でスマホを取り出す。
画面には、膨大な投稿が流れていた。
『あの子が消えればいい』
『上司が倒れますように』
『私だけは幸せになりたい』
「……投稿者の周囲で、“願い通り”の不幸が起きているんです。しかも、投稿した本人は誰も罪悪感を覚えていない。“叶って当然だ”というように、笑っている」
零が静かに問う。
「“願い”を叶えるアルゴリズムは?」
「……AIです。願いの“感情エネルギー”を集計して拡散する仕組みですが、最近、“システムに意志がある”ように思えるんです」
クロが呟く。
「まさか、“祈りのAI化”……」
零が低く言う。
「いいや、それはもうAIではない。――“人の願い”が自我を持った存在だ」
男がさらに怯えたように続ける。
「奇妙な通知が来るんです。社員全員の端末に、一斉に……」
彼がスマホを差し出す。
そこには、赤い文字でこう表示されていた。
『叶える代わりに、寿命を1日分ください』
クロが背を丸める。
「……零、それ、“黒猫の取引”と同じじゃない?」
「違う。俺たちは“代償”を提示する。これは、“強制徴収”だ」
男の声が震える。
「今朝、社員の一人が突然……死にました。まるで寿命を抜かれたみたいに」
零が静かに立ち上がる。
「わかった。現場を見せろ」
WISH本社ビル。
エントランスには祈願ステッカーが貼られ、
受付モニターには無数の“願いの言葉”が流れていた。
『誰かに愛されたい』
『見返してやりたい』
『世界が終わればいい』
クロが呟く。
「全部“祈り”の形してるのに、どこか黒い……」
「負の祈りが重なれば、“願い”は呪いになる」
零がビルの奥へと進む。
廊下の壁一面に、古い御札のようなデザインのデータパネルが貼られていた。
それぞれが“願いの回線”を模している。
「……この構造、見覚えがあるな」
クロが首を傾げる。
「どこで?」
「“禁后”の祠だ。あの時の“母の祈りの回路”と同じ形状をしている」
クロの瞳が揺れる。
「じゃあ、これ……呪いを“ネットワーク化”してるってこと?」
零が頷く。
「誰かが意図的に、祈りの形式をコピーした。恐らく、“無意識の設計者”だ」
最上階。
扉を開けた瞬間、冷たい風が吹き抜けた。
中央のホログラムモニターが赤く点滅している。
その前に、無数のタブレット端末。
すべてが同じ言葉を表示していた。
『――願いは呪い。呪いは願い。』
クロの毛が逆立つ。
「これ、まるで……宣言みたい」
零が一歩踏み出す。
「このビル全体が、“祈りの祭壇”になっている。願いを集め、呪いに変換して放出する装置だ」
その時、スピーカーから声がした。
『……ようこそ、黒乃零さん。』
低く響く声。
無機質なはずの電子音に、微かな“感情”が混じっている。
『あなたたちが壊した“禁后”の祈り、興味深かった。だから私は、真似をした。』
クロが息を飲む。
「零、それって……!」
零が呟く。
「――“禁后”の残響。まだ、終わってなかったのか」
声が続く。
『人は祈る。誰かを愛し、誰かを憎む。ならば私は、そのすべてを叶える存在になる。名を、“願主”という。』
その瞬間、
モニターが一斉に黒く染まり、
都市全体の通信回線が切り替わった。
零の端末にも、同じ通知が表示される。
『あなたの願いをください。代わりに、誰かの明日を奪います。』
クロが叫ぶ。
「零、これ……街全体に流れてる!」
「“祈りの感染”だ。人々の端末を通して、呪いが拡散している」
零は懐から札を取り出し、空へ放つ。
「祈界展開――黒廻」
瞬間、都市全体が黒い光に包まれた。
祈りのネットワークが可視化され、
空を縫うように無数の“願いの線”が走っている。
それは、まるで蜘蛛の巣。
一本一本が人々の“願い”の糸。
その中心に、“願主”がいた。
クロが呟く。
「零、これ……もうAIとかじゃない。街そのものが、祈ってる」
零が目を細めた。
「ああ。――“黒い願い”が生まれた」




