第十一話 鏡に棲むもの ― 後半 ―
――夜が明けようとしていた。
窓の外から、かすかに鳥の声が聞こえる。
佐久間綾の部屋の中央には、
もうただの鏡が一枚、静かに立っているだけだった。
クロがその前で尾を揺らす。
「……完全に静かになったね」
零が頷く。
「母と娘の想いは、ようやく一つになった」
綾はベッドの端に座り、両手を胸の前で握っていた。
「お母さんの声、もう聞こえません。でも、不思議と怖くないんです」
零は小さく微笑んだ。
「それは“消えた”のではない。お前の中で“還った”んだ」
「……還った?」
「人は誰かを憎む時、その想いを外に出す。けれど、それを受け止め直せた時、呪いは“自己”の中に戻る。――そして、それを“祈り”と呼ぶんだ」
綾の瞳が少し潤む。
「お母さんは、もう苦しんでないですよね」
クロが穏やかに言う。
「うん。きっとどこかで、あなたの夢を見てる」
事務所に戻ると、朝日が差し込んでいた。
零はカップに湯を注ぎながら、鏡の欠片をひとつ、机の上に置いた。
クロがそれを覗き込む。
「それ、綾ちゃんの部屋から?」
「ああ。封印した残響だ」
鏡の欠片の表面が、かすかに波打っている。
そこには、人の輪郭が映っていた。
女性でも、子供でもない。
“何か”がこちらを見ている。
クロが眉をひそめる。
「……あれ、まだ何か居るよ」
零は静かに頷いた。
「“心の残響”だ。綾の中にあった、もう一人の彼女――母でも娘でもない、ただ“生きたくなかった少女”」
クロが声を潜めた。
「……自分を呪う形?」
「そうだ。呪いの最も根源的な形は“自己否定”だ。他人を呪う前に、人はまず自分を罰する」
その夜。
零の部屋に置かれた鏡の欠片が、
微かな音を立てて震えていた。
クロが目を開け、立ち上がる。
「……零、また動いてる」
零は机から立ち上がり、
欠片を手に取った。
光が弾け、
次の瞬間、彼の周囲の景色が反転した。
再び――鏡の中。
目の前に、少女が立っていた。
それは確かに綾の姿をしていた。
だが、表情は無表情で、瞳には何も映っていない。
「……あなた、零さん?」
声は淡く、響きもない。
“心の残響”――綾の負の意識そのもの。
零は頷いた。
「そうだ。お前は何を望む」
少女が首を傾げる。
「消えたい。でも、消えられない」
「なぜだ」
「お母さんを許したあの子が、まだ生きてるから。でも……わたしは、あの子になれない」
クロが静かに言った。
「あなたは“生き残った呪い”なんだね」
「……わたしは、綾が“いらない”と思った心の部分。だから、生きてちゃいけないの」
少女の足元から、黒い水が滲み出す。
その中には無数の手が蠢いている。
それは、これまで零が祓ってきた“呪い”たちの残滓だった。
「みんな、同じ。消えたいのに、祈られるから消えられない。――だから、あなたたちを呪う」
クロが低く唸る。
「零、やばい。これ、他の呪いを引き寄せてる!」
「わかっている」
零が符を広げた。
「祈断――影返!」
光が走るが、少女は一歩も引かない。
むしろ笑った。
「祈りじゃ、届かない。だって私は“祈りの否定”だから」
クロが息を飲む。
「……“祈りの否定”……?」
「そう。あなたたちが救った人々の、裏側にある“諦め”。それが、私たちの正体」
零は静かに目を閉じた。
「――そうか。なら、お前たちも祈りの一部だ」
少女の瞳が揺れた。
「……何を言ってるの?」
「祈りも呪いも、表と裏。ならば“祈りの否定”は、“祈りそのもの”だ。お前を否定すれば、綾はまた呪われる。だから、俺はお前を赦す」
少女が震える声で叫んだ。
「赦さないで! 赦されたら、私が壊れる!」
零は静かに歩み寄る。
「壊れていい。人は壊れて、また形を変える」
少女の頬に触れた瞬間、
空が光に裂けた。
少女の身体がひび割れ、
中から淡い光があふれ出す。
「……ねぇ、零さん。生きてても、いいのかな」
「生きろ。それが、お前の祈りだ」
少女が微笑んだ。
「じゃあ……おやすみなさい」
光が弾け、鏡の世界が消えた。
静寂。
零は目を開けた。
机の上には、ただのガラス片。
もう何の気配もない。
クロがその横で小さく言った。
「……全部、終わった?」
「いや。呪いは終わらない。だが、“人の心の奥”を少しは照らせた」
零はカップを手に取り、
朝焼けの光の中で一口飲んだ。
クロが微笑んだ。
「ねぇ、零。やっぱり、あたしたちの仕事って、“人を呪いから救う”ってより、“人の祈りを見届ける”ことなんだね」
零が頷く。
「そうだ。呪いも祈りも、生きている証だ。どちらも切り離せない――だから、俺たちは見届ける」
その日の昼。
綾が事務所に訪ねてきた。
制服姿で、どこかすっきりした表情をしていた。
「……ご挨拶をと思って。学校に戻る前に、お礼を言いたくて」
クロが嬉しそうに机の上で丸まる。
「顔色、全然違うね。いい夢でも見た?」
綾が小さく笑った。
「ええ。……お母さんと一緒に、鏡の中で桜を見ていました」
零が頷く。
「それでいい。祈りは、夢の中でも続く」
綾が扉に向かい、振り返る。
「零さん、黒猫さん。――わたし、生きてみます」
零は短く微笑み、
「それが、最上の祈りだ」
扉の鈴が、かすかに鳴った。
――ちりん。
夕方。
クロが窓辺で外を見ながら、ぽつりと呟いた。
「零、今日の子、きっと大丈夫だね」
「ああ。“鏡に棲むもの”は消えた。残ったのは――“生きたい”という祈りだけだ」
零はふと、机の上の鏡の欠片を見た。
そこには、うっすらと二つの影が映っていた。
黒いコートの男と、小さな黒猫。
クロが振り向く。
「零?」
「いや、少し思っただけだ。俺たちも、この鏡に棲むものかもしれないな」
クロが笑う。
「じゃあ、悪くないね」
外の空は茜色。
街の音が穏やかに流れていた。
そして、零は静かに呟いた。
「――今日も、祈りが誰かを救っている。」




