第十一話 鏡に棲むもの ― 中半 ―
――世界が、音を失った。
白い光が収まると、そこは静まり返った空間だった。
黒い鏡面の地面の上に、零とクロ、そして“鏡の綾”だけが立っている。
空は暗いガラスのように光り、どこまでも反射している。
クロが周囲を見回しながら呟いた。
「……さっきまでの場所と違う」
零が頷く。
「“記憶層”に移動した。――この鏡の主の、記憶の中だ」
鏡の綾が微笑んだ。
「そう。ここは“母が最後に見た世界”」
その瞬間、
地面の鏡が波紋を描き、映像が浮かび上がった。
そこに映っていたのは、古い団地の一室だった。
薄暗い部屋の中、ひとりの女性が鏡の前に座っている。
髪は乱れ、目の下には深い隈。
鏡に映るのは――まだ幼い綾。
『ママ、見て。ほら、描けた』
『……綾、今は静かにしてて』
女性は笑わない。
綾が差し出した絵を見ても、目を合わせようとしない。
『ママ、どうして笑わないの?』
『うるさい。お願いだから、黙って』
幼い綾の手から紙が落ち、
泣きそうな声で呟いた。
『……わたし、ママの嫌いな子なの?』
女性は、答えなかった。
ただ、鏡の中の自分を見つめていた。
そこには“笑う自分”が映っている。
『いいえ、違うの。あんたが嫌いなんじゃない。あんたを愛せない自分が、嫌なのよ』
そう呟いた母の声は、震えていた。
クロが低く唸った。
「……これが、綾のお母さんの心」
零が静かに答える。
「愛せないことを呪った“母の祈り”だ。愛を失った者は、必ず“鏡”に救いを求める」
鏡の綾がゆっくりと近づく。
「母は毎晩、鏡の前で泣いてた。“明日は笑えるように”って、自分に言い聞かせてた。でも、笑えなかった。あの人は、自分の顔を憎んでたの」
綾の声は静かだった。
「その鏡に映っていた“笑う母”は、本当は“わたし”だったのかもしれない」
零は頷いた。
「だからお前は“鏡の中に生まれた”。母が笑えなかった分の祈りと呪い――それが、“お前という存在”を作った」
鏡の地面が再び波紋を描く。
別の映像が浮かび上がった。
部屋の中で、少し成長した綾が母に抱きつこうとしている。
母は一歩下がり、拒むように腕を避ける。
『……触らないで。ごめんね、綾』
『どうして? どうして抱きしめてくれないの?』
『怖いのよ。あなたを抱いたら、壊してしまいそうで……』
母の目から涙が落ちる。
綾が泣き叫ぶ。
『わたしは、壊れない! ちゃんと生きてる!』
だがその叫びは届かない。
母は、ただ鏡を見つめていた。
――その鏡が、
後に綾へと受け継がれる“呪具”だった。
クロがぽつりと呟いた。
「ねぇ零、母親って……どうして自分のことをこんなに責めるんだろうね」
零は目を閉じた。
「“愛せない”という感情は、人にとって最も深い罪だからだ。そして、その罪は、必ず“愛されたがる”形で返ってくる」
「……愛を呪うのか」
「ああ。だからこそ、呪いは“愛の裏側”にある」
その時。
鏡の綾が突然、笑い声を上げた。
「でもね、零。この母の記憶を見たところで、何も変わらないの。母は、もういない。私は、“母の心を喰った娘”なのよ!」
空が割れ、鏡の世界が歪む。
母の記憶が砕け散り、黒い水が足元から溢れ出した。
零が符を構えた。
「くるぞ、クロ!」
「了解!」
鏡の綾の身体がひび割れ、
中から黒い腕が無数に伸びた。
その腕は、綾本人の影からも生えている。
「母を愛せなかった私を、許せるわけがない!」
クロが叫んだ。
「綾、それは違う! あなたは母を呪ってなんかない!」
「嘘よ! 呪ったの! 死ねばいいって何度も思った!」
零が声を張る。
「それでも、お前は“母を忘れなかった”!それが祈りだ、綾!」
鏡の綾が立ち止まる。
その目から、涙がこぼれた。
だが同時に、黒い腕がさらに暴れ、鏡の空間が崩れ始める。
クロが跳び、零の前に立つ。
「零、早く“祈り返し”を!」
「まだだ……この娘の“本体”が呼んでいる」
その瞬間、遠くで、少女の声が聞こえた。
『――お母さん、ごめんなさい……!』
現実の世界。
鏡の前で、佐久間綾が泣きながら、手を合わせていた。
零はその声に反応し、掌を掲げた。
「聞こえるか、綾! お前が母を赦せば、この呪いは終わる!」
鏡の綾が震える。
「赦す? どうやって?」
零の声が低く響いた。
「“ありがとう”って言えばいい」
「……そんな言葉で……」
「祈りは、いつだって簡単だ。難しいのは、それを口にする勇気だけだ」
鏡の綾が、唇を噛みしめる。
そして、ぽつりと呟いた。
「――ありがとう……お母さん」
その言葉が、鏡世界全体に反響した。
黒い腕が霧のように崩れ、
空が光に満ちていく。
クロが目を細めた。
「……零、これ、泣いちゃうね」
零が静かに微笑む。
「祈りが届いた。それだけで十分だ」
光が収まると、
そこにはもう“鏡の綾”の姿はなかった。
ただ、一枚の古い鏡が、
静かに立っていた。
鏡の中には、“母と幼い綾”が寄り添って眠っている光景が映っていた。
クロが小さく囁く。
「……零、これって」
「最後の記憶だ。母と娘が、ようやく一緒に眠れたんだ」
現実世界。
零とクロが目を開けると、
鏡は穏やかな光を放ちながら静止していた。
綾が床に座り込んで、涙を流していた。
「お母さん、笑ってたんです……夢みたいに、優しくて……」
零が微笑む。
「それは、呪いが祈りに戻った証拠だ」
クロが尻尾を揺らす。
「もう、この鏡は呪具じゃない。“思い出の器”だね」
綾が小さく頷いた。
「……ありがとうございました」
零は立ち上がり、静かに答えた。
「感謝なら、お前の母に言え。今夜だけは、鏡を見ていい」




