第十一話 鏡に棲むもの ― 前半 ―
――春の風が、街を撫でていた。
黒乃零とクロが山里の事件を終えて戻ってきたのは、桜が散り終えた頃だった。
街の空は明るく、
長い冬を越えたような穏やかさが戻っている。
それでも零の瞳の奥には、
あの“禁后”の祠で見た娘の笑顔が焼き付いて離れなかった。
「……祈りも、呪いも、誰かを想う形なんだな」
ぼそりと呟く声に、
机の上の黒猫――クロが尻尾を揺らした。
「零、また難しい顔してる」
「少し、考えていただけだ」
「どうせ、“人間はなぜ呪うのか”とかそんなやつでしょ」
「お前、だいぶ俺の思考を読めるようになったな」
クロが小さく笑った。
「一緒に居すぎて、もう癖まで分かるよ」
零は微笑み、湯を注いだ。
事務所の窓の外では、街の音が遠くに響いていた。
バスのブレーキ音、子供の笑い声、風の音。
何もかもが日常だった。
その時、――小さな鈴の音が鳴った。
扉の向こうに、少女が立っていた。
黒髪を肩まで伸ばし、制服の上にカーディガンを羽織っている。
年の頃は十六、七。
顔色は悪く、手には包帯が巻かれていた。
「……ここ、黒猫呪術代行事務所、ですよね」
零が頷く。
「そうだ。座っていい」
少女は小さく礼をして、椅子に腰を下ろした。
クロが机の上からじっと彼女を見つめる。
「あなたが、依頼人?」
少女は小さく頷いた。
「……はい。わたし、佐久間 綾っていいます」
零が静かに問う。
「何に悩んでいる」
少女の指先が震えた。
「……鏡が、わたしを見てるんです」
零は眉を動かした。
「鏡が?」
「はい。……鏡の中の“わたし”が、わたしじゃないんです」
綾の話はこうだった。
数週間前から、朝鏡を見ると、
映る自分の“目”がわずかにずれていることに気づいた。
最初は疲れかと思った。
だが日を追うごとに、その違和感は大きくなっていった。
笑顔を作れば、鏡の中の自分が笑わない。
髪を梳かせば、鏡の中の自分は少し遅れて動く。
やがて、鏡の中の“綾”が夜になると――笑い出した。
「“お前なんていなくなればいい”って、笑って言うんです」
少女の声は震えていた。
「昨日の夜、寝る前に鏡を見たら……鏡の中の“わたし”が、目を開けたままこっちを見てたんです。――で、次の瞬間、鏡が割れて、腕に切り傷が……」
包帯の下には、細かいガラス傷がいくつも走っていた。
クロが唸る。
「……自己攻撃型の呪い?」
零が頷く。
「“鏡像呪”かもしれない」
綾が不安そうに問いかけた。
「それ……治るんですか」
零は少し黙り、
「治る。ただし、鏡の向こうに居るお前を助ける必要がある」
その夜。
零は依頼人の自宅へ向かった。
綾の家は、古い集合住宅の三階。
彼女の部屋は驚くほど整っていた。
だが、その中央に置かれた姿見だけが異様だった。
大きな古鏡。
縁に黒い布が掛けられ、
金属の装飾が剥げ落ちている。
クロが低く唸る。
「……これ、ただの鏡じゃない」
零は頷いた。
「“受容呪具”。持ち主の感情を映して、呪いとして固定するタイプだ」
綾が怯えた声で言った。
「それ……母が、形見だって言ってくれた鏡なんです」
零が目を細める。
「母親は?」
「二年前に亡くなりました。……自殺でした」
沈黙が流れる。
クロが小さく息を呑む。
「零、それって……」
「ああ。この鏡は“母の遺呪”だ」
鏡の前に座り、零は符を並べた。
「――佐久間綾。これから鏡の中に入る。
だが、俺たちが出るまで決して鏡を触るな」
綾が頷く。
「……はい」
クロが零の肩に乗る。
「久しぶりの“鏡潜り”だね」
「油断するな。ここは“自己否定”が生き物になる場所だ」
零は符を掲げ、呪文を紡いだ。
「祈界展開――鏡廻」
鏡の表面が波打ち、
白い光が零たちを包み込んだ。
――視界が反転した。
足元は黒い水。
空は鏡面のように光っている。
そこに、“もう一人の少女”が立っていた。
綾。
だが、表情がまるで違う。
唇は笑い、目は濁っている。
「こんにちは、黒乃零。そして、“お母さんを救った黒猫”。」
クロが息を呑む。
「……知ってる?」
鏡の綾が笑う。
「あなたたちが壊した“禁后”の祠。あれ、見てたの。あの子が消えた時、私も消えたのよ。でも――消えられなかった。」
零が表情を引き締める。
「つまり、お前は“禁后の残滓”か」
「ふふ、そう。母に愛されたい娘の呪い。でもね、私は“娘を愛せなかった母の呪い”でもあるの」
クロが叫ぶ。
「じゃあ綾の母親の想念が、鏡に――!」
鏡の綾がゆっくりと微笑む。
「母も娘も、鏡の中では同じ。“愛せなかった”という呪いだけが、ここに残るの」
零は静かに手をかざした。
「――分かった。お前を、救う」
少女の瞳が揺れた。
「救う? あなたが? 何様のつもり?」
零の声は冷静だった。
「祈りと呪いの観測者だ」
クロが一歩前に出る。
「もう、“母の代わりに自分を罰する”のは終わりだよ」
少女が叫ぶ。
「違う! 母を許したら、私は消える!」
零が低く呟いた。
「それでも構わない。お前が消えることが、綾を“救う祈り”になるなら」
黒い鏡面が波打ち、
空にひびが走った。
少女の影が揺らめき、
鏡世界全体が軋む。
クロが叫んだ。
「零、ここ、崩れる!」
零が符を広げる。
「祈断・鏡裂!」
白い光が爆ぜ、世界が反転する。




