外伝2 禁后(パンドラ)― 後半 ―
――夜明け前、霧が降りていた。
村を包む靄は、まるで誰かの吐息のように重い。
零は静かに歩いていた。
クロは肩の上に乗り、沈黙している。
あの廃屋の儀式を終えてから、村は奇妙な静寂に包まれていた。
村人たちは口を開かず、だが恐怖も消えていた。
まるで長い夢から覚めたように。
「……零」
クロの声はかすかだった。
「終わったのに、まだ……何か、残ってる」
零は頷く。
「“根”がまだ生きている。禁后は、ただの儀式じゃない。“信仰”そのものが呪いとして残っている」
クロの瞳が細められる。
「根って……もっと昔の?」
「この村の最初の“母”だ。母を楽園へ導くため、娘を“贄”とした最初の女」
風が鳴った。
零は足を止め、古びた石段を見上げた。
そこにあったのは、崩れかけた祠。
社殿の上部に刻まれた古文字。
『産祀ノ母神』
「……ここだ」
クロが息を呑む。
「“母神”……」
零は祠の前に膝をついた。
「この呪いの始まりは、“信仰の歪み”だ。母が救われたいと願い、娘を差し出した。そして、娘たちはその苦しみを“祈り”と呼んだ」
クロが静かに問う。
「ねぇ零。人って、どうして“愛”をこんな風に変えちゃうの?」
零は目を閉じた。
「愛も祈りも、形を求めた瞬間に、呪いへと変わる。だからこそ、俺たちは形を壊して“想い”だけを残す」
クロが小さく頷いた。
「じゃあ、やろう。――壊そう、“禁后”を」
零は懐から筆と符を取り出した。
祠の前の地面に、ゆっくりと円を描く。
「祈陣・母祈返」
円の中に八枚の札を配置する。
札には、これまでの依頼者たちの“祈りの残滓”が込められていた。
クロがその中心に座り、目を閉じる。
風が止む。
村全体が息を潜めるように静まった。
「クロ、始めるぞ」
「うん」
零が祈りの言葉を紡ぐ。
「母なる祈りよ、その手を離し、娘を抱け。娘なる呪いよ、その痛みを捨て、母を赦せ。」
その瞬間、祠の奥から光が溢れた。
風が逆巻き、地面が震える。
クロの身体が浮き上がり、瞳が金色に輝いた。
「零、何か来る!」
祠の中から現れたのは――
ひとりの女の姿だった。
だが、それは“母”ではなかった。
無数の娘たちの怨嗟が重なり、
ひとつの存在として形を成したもの。
「私たちは、母を許せなかった。でも、愛していた。それが、私たちの呪い。」
声が重なり、空気が歪む。
零は筆を握りしめた。
「その呪いを、祈りに戻す!」
「封祈・返華」
符が燃え、風が渦を巻く。
クロがその中心に飛び込み、叫ぶ。
「零、あたしを媒介にして! “母と娘”を繋げて!」
零が目を見開く。
「クロ、それは――お前の魂が裂ける!」
「いいの! あたしは“黒猫”、祈りを喰う影だもの!」
クロの身体が光に包まれ、
彼女の影が地面に広がった。
その影の中から、無数の小さな手が伸びた。
それは、かつて“禁后”として生まれた娘たちの手。
「お母さん……もう、いいよ」
零の喉が詰まる。
クロの瞳から涙が零れる。
その涙は光となり、祠の女たちを包んでいく。
「祈り、還元――母の愛、地へ。娘の声、空へ。」
祠が揺れ、光が弾けた。
女たちの身体が崩れ、空へと昇っていく。
その顔には、静かな笑みがあった。
しばらくして。
すべての光が消えた。
祠はただの古びた石の箱となり、
呪気は完全に消えていた。
クロが地面に倒れ込む。
零が駆け寄り、抱き上げる。
「クロ!」
クロが目を細め、かすかに笑った。
「……みんな、帰ったね」
零が頷く。
「“母”も“娘”も、ようやく同じ場所に」
クロが喉を鳴らす。
「ねぇ、零。あたしたちも、祈りの輪の中にいるのかな」
零は空を見上げた。
「そうだ。俺たちはいつも、誰かの祈りの上に立っている。そして、その祈りを――呪いにしないよう、見届ける」
夜が明けた。
村の空は、雲一つない青。
人々が外に出て、畑に立つ。
子供たちが笑い、風が吹く。
老婆が祠の前に立ち、
手を合わせていた。
「……ようやく、“娘の声”が静かになったねぇ」
零はその後ろ姿を見て、小さく頷いた。
クロが彼の肩で欠伸をした。
「ねぇ零、あたしね、思ったんだけど」
「なんだ」
「“禁后”って、きっと“封じられた祈り”の象徴だったんだね」
零が笑う。
「その封印を解いたのは、お前だ」
「ふふ、じゃああたしも、少しは役に立てたかな」
「お前がいなければ、俺も呪いに飲まれていた」
クロは尻尾を揺らした。
「それは困る。だってあたし、零とじゃなきゃ生きてる意味がないもん」
零は少しだけ目を伏せた。
「……そういう言葉は、軽く聞こえるが――本当に、救われるな」
村を離れる時、
風がやさしく吹いた。
ふと、振り返ると、祠の上に一羽の白い鳥が舞っていた。
その翼の先に、かつて“禁后”と呼ばれた少女の面影があった。
クロがそれを見上げて呟く。
「ねぇ、零。あの子、笑ってたね」
「ああ。ようやく、“母”と一緒に空を見てる」
零は祈り箱を取り出し、
その中に一枚の新しい符を収めた。
『禁后供養。母と娘、互いを赦し合う。祈り、永久に封ぜず。』
箱を閉じ、鈴が鳴る。
――ちりん。
その音は、春の風に溶けていった。




