外伝2 禁后(パンドラ)― 中半 ―
――闇の底で、血が滴る音がした。
零の意識は、まるで深い井戸の中に沈んでいくようだった。
息ができない。
自分の身体が自分のものではない感覚。
目を開けると、そこは“女の部屋”だった。
薄暗い明かり。
壁一面に貼られたお札。
部屋の中央には、巨大な鏡台。
そしてその前で――ひとりの女が笑っていた。
「ようこそ、黒乃の御方。あなたも“母”を知りたいのね?」
声は甘く、けれど耳を切るように鋭い。
零は呼吸を整えながら周囲を見渡した。
部屋の隅、壺の中。
中には爪、歯、髪の束。
全て“娘のもの”だと、零は直感で悟った。
女が振り返る。
その顔には、人間の輪郭がなかった。
目の位置から血が流れ、笑いながら泣いている。
「娘はね、母のために生まれるの。あの子の身体のすべてが、私を天へ導く舟になるの」
零は冷静に問う。
「……母親の精神を“楽園”に送るために、娘を呪物とした……それがこの儀式の目的か」
女が嬉しそうに頷いた。
「そう、そうよ。あなたも、母を恋しいと思ったことがあるでしょう?」
零は黙っていた。
女の言葉の奥には、“信仰”ではなく“狂気の慈愛”があった。
母性の成れの果て。
それが――禁后の呪い。
その頃、現実。
クロは床に倒れた零の身体を必死に抱き上げていた。
「零! 戻ってきて!」
彼の額から冷や汗が流れ、唇が微かに動いている。
呪言の反応。
精神が“儀式空間”に囚われている。
クロは彼の胸の上に自らの足を置き、目を閉じた。
(……入る。あたしが“橋”になる)
小さな身体が淡く光り、
黒猫の瞳が金色から“紫”に変わる。
「式転身――影繋」
瞬間、クロの身体は霧に変わり、零の額へ吸い込まれた。
闇の中、クロは立っていた。
その足元には、水に沈んだ鏡台。
鏡の表面に、零が囚われている姿が映っている。
「零!」
声を出すと、鏡の向こうで零が顔を上げた。
「……クロ、来るな! ここは“母の世界”だ!」
「置いていけるわけないでしょ!」
クロが鏡を叩く。
波紋が広がり、空間が歪む。
女の笑い声が響く。
「“娘”がまた、母を裏切るの?」
クロが振り返ると、女の姿が水面から浮かび上がっていた。
着物の裾を引きずり、
片腕を失った姿。
残る片手には、少女の手首を握っている。
「……それを、返してもらう」
クロが低く唸る。
女は笑った。
「この子は、母を救うために生まれたのよ。その名は“禁后”。“仮の名”しか知られぬようにして、永遠に母とともに祈る存在にした。可愛いでしょう?」
「それは愛じゃない」
クロの声が震えた。
「それは“願い”を呪いに変えた、祈りの暴走だよ」
女が首を傾げた。
「暴走? 違うわ。だって娘は、“母の心を楽園に運ぶ舟”よ」
「その舟に、娘の“命”を積んだ時点で、それは地獄行きなんだよ!」
女の瞳が、赤く染まった。
「では、あなたが証明してみなさい――愛が呪いを超えると!」
女が手首を掲げる。
水面が血に染まり、
無数の腕が湧き出した。
クロは零の鏡の前に立ち、尻尾を広げる。
「“黒猫”の名において、主を護る!」
「祈陣・影焔!」
闇が炎となって広がり、女の腕を焼く。
だが女は笑っていた。
「そんなものでは足りない。母の愛は、どんな呪いよりも深いのよ!」
女が叫ぶと、空間が揺れた。
クロの身体が光に引かれ、
鏡の向こうへ吸い込まれそうになる。
「やめてッ……零、聞こえる!? 戻ってきて!」
鏡の中の零が苦しげに目を開けた。
「……クロ、俺を“呼べ”」
「呼ぶ?」
「俺の名を。俺の――真名を」
クロは息を呑む。
黒乃零の“真名”――
それは彼が一度も口にしたことのない、祈りの根だ。
「でも、それを言ったら、あたし……」
「構わない! 俺は“お前の影”だ!」
クロの瞳に光が宿る。
「……零」
小さく、しかし確かな声で、クロは彼の“真名”を呼んだ。
「――黒乃 黎真」
その瞬間、鏡が砕け散った。
水面が爆ぜ、空間が裂ける。
零がクロを抱きしめるように腕を伸ばし、
ふたりの光が交わる。
女が絶叫した。
「母の名を……娘が汚すな……!!」
零が女の前に立ち、
血に濡れた手首を奪い取った。
「これは“娘の供物”ではない。――“母の罪”だ」
「祈断・母祈返!」
光が弾け、手首が灰となる。
女の身体が崩れ、声が溶けた。
「母の……楽園が……見たかったのに……」
零が静かに言う。
「楽園は、生きている者の心にしかない」
その言葉とともに、
部屋の鏡台が音を立てて崩れた。
壁に貼られたお札が剥がれ、
空間が光に満ちていく。
再び、静寂。
零は膝をつき、クロを抱き上げた。
クロの身体がまだ微かに震えている。
「……怖かった」
「よく頑張った」
クロは目を閉じ、彼の胸に顔を埋めた。
「ねぇ零……あの“娘”は、どうなったの?」
零は遠くの闇を見た。
光の中に、小さな影があった。
少女。
血の跡を残したまま、微笑んでいた。
「ありがとう……お母さんを、許してあげて」
クロの瞳に涙が溜まる。
「……禁后……」
少女は首を振った。
「それは仮の名。本当の私は、もう“誰でもない”」
少女の身体が光になり、空へ昇っていく。
零は深く頭を下げた。
「……せめて、安らかに」
――祈り、還元。
現実。
屋敷の屋根が崩れ、夜明けの光が差し込んでいた。
零とクロは、倒れた鏡台の前に座っていた。
鏡は完全に砕け、引き出しの中は空っぽ。
クロが息をつき、
「……もう、全部終わったの?」
零が頷く。
「“母の呪い”は消えた。娘は、ようやく祈りの外へ出られた」
外の風が流れ込む。
桜の花びらがひとひら、部屋の中へ舞い込む。
クロがそれを見上げ、
小さく微笑んだ。
「……春が来たね」
零も、穏やかに笑った。
「ようやくだな」
その夜、宿屋に戻ると、
娘――昨日助けを求めてきた少女が、
泣きながらふたりに頭を下げた。
「ありがとうございました……」
零は軽く頷き、
「祈りは、形を変えて巡るものだ」とだけ言った。
クロが肩に跳び乗り、
「もう“母”を憎まないでね。きっと、あの人も後悔してるから」
少女は涙を拭き、
「……はい」と微笑んだ。
夜の村を後にする時、
零とクロは振り返った。
廃屋のあった山の上――
そこに、朧げな光が灯っていた。
まるで母と娘が、
ようやく同じ空を見上げているかのように。




